◆オフトジャパン
日本サッカ−は92年を境に大きく進化していくことになる。それまでの日本サッカ−は日本リ−グに観客が集まることはほとんどなく、また日本代表も主な国際大会に出場できる実力を持っていなかった。しかし、92年2月に日本代表の監督に初めて外国人であるオランダ人のハンス・オフトを迎え、またJリ−グ初の公式戦であるナビスコカップがスタ−トしたことで、その状況は劇的に変化する。
オフトが日本にもたらしたもののひとつに戦術がある。主なものにアイコンタクト(プレ−ヤ−同士が互いに何を考えているのか目で確認しあう)、トライアングル(ボ−ルを持った選手に必ず二人のプレ−ヤ−がサポ−トに付き、パスコ−スをつくる)、スモ−ルフィ−ルド(前線から最終ラインまでの距離をコンパクトに保つ)といった言葉で表現されるものである。
だが、もちろんこれらはオフトのオリジナルではなく、本格的にサッカ−をやった者なら誰でも習う基本である。しかし、選手個々の戦術理解度に差があると判断したオフトは、これらの戦術を徹底することでチ−ムの土台を固めていった。
成果は目覚ましく、その年のダイナスティカップから3連覇。さらに同年のアジアカップにも優勝し、日本は初めてアジアの頂点に立つ。だが、カタ−ルでのアメリカW杯アジア最終予選最終戦となった対イラクをロスタイムの失点で引き分けてしまい、ほとんど手中に収めかけていた出場権を失ってしまう。何故か。主な原因はふたつ考えられる。ひとつめは真剣勝負での経験不足。つまりオフトが就任してからの2年間では時間が足りず、長期的な海外遠征をこなすことができなかったことと、最終予選に選ばれたメンバ−はユ−ス(20歳以下のカテゴリ−)や五輪(23歳以下のカテゴリ−)で、アジア予選を勝ち抜いて本大会に進んだことが無かったため、国際舞台での経験が少なかった。そしてふたつめは、選手層の薄さである。左サイドバックのレギュラ−である都並を怪我で欠くと、控えではその穴を埋めきれずに攻守のバランスを崩してしまう。たったひとつのポジションの控えすら存在していなかった。
しかし、W杯の出場は逃したものの最終予選のスリル感は多くの日本人の目をサッカ−に向けさせることになり、翌年幕を開けたJリ−グに空前の大ブ−ムがもたらされることになる。
◆Jリ−グ初期(93〜94)
93年から始まったJリ−グは、未曾有のバブル的熱狂に包まれていた。日本代表の活躍、有名大物外国人の加入などが盛り上がりに一役買ったのは間違いないが、なんといっても久しぶりに日本に誕生したプロスポ−ツでありサポ−タ−・ダ−ビ−マッチといった新しい言葉や、新しい応援スタイルがプロ野球などの既存のスポ−ツにはない要素を持っていたことが最大の要因だろう。当初、Jリ−グは赤字経営になることをある程度覚悟してスタ−トした。それまでの日本リ−グ時代のがらがらの観客席を前提にしていたのだからそれも当然のことと言えるだろう。しかし、バブル的な盛り上がりによって「Jリ−グ=儲かる」という図式が各チ−ムの親会社に植え付けられてしまった。これにより目先の戦力上積みの為、人件費や環境整備の設備投資が経営規模に見合わないほど、上昇する事態を招いてしまう。
実際のリ−グ戦では、大物外国人とは言っても現実には峠を越えていた選手が多く、今見るとあまりスピ−ドもなく、海外のメディアからは「年金リ−グ」と陰口を叩かれていた。しかし、それでも高いテクニックを持った選手との対戦した経験がない日本人にとってはお手本となるところも多く、彼ら大物外国人に引っ張られる形でJリ−グのレベルは徐々に上がっていった。
このころのJリ−グを支配していたのは多数の日本代表クラスの選手を抱えていたヴェルディ川崎で、持ち前の高いプロ意識に支えられて93・94年と連覇を果たし、絶頂期を謳歌していた。
◆ファルカンジャパン
アメリカW杯には行くことのできなかったオフトが辞任し、94年4月に就任したのはブラジル人ロベルト・ファルカンであった。世界的にはほとんど無名であったオフトと違い、80年代のブラジル代表の中心であり、引退後もブラジルユ−ス代表監督としてキャリアを積み上げていたが、その期間は短いもので、経験不足を危惧する声は少なからずあった。
ファルカンはブラジルスタイルの攻撃的サッカ−を目指して、オフト時代には選ばれることの無かった若い選手を積極的に登用していった。Jリ−グ発足前後に入団した選手が徐々に頭角を表してきていたことも大きく影響したことは間違いない。また、若手の成長がなければ98年のフランスW杯アジア地区予選を勝ち抜くことは難しいと判断してのことだった。
しかし、ファルカンジャパンになっても、攻撃面の中心はオフトと同じくラモスだったが、双方の見解の違いからラモスと袂を分かってしまうと攻撃力が大幅に減少してしまい、契約更新のノルマであった94年のアジア大会でベスト4を達成できずなかったことで、わずか半年で解任されてしまう。
余談ではあるが、歴代の日本代表監督が交替するのは、ほとんど韓国に破れた後で、ファルカンもこの前例からは逃れることができなかった。逆に韓国の代表監督も日本に破れると、世論は一気に解任に傾いていく。両国のライバル関係を端的に示していると言えるだろう。
◆加茂ジャパン・前期(95年)
94年の年末にファルカンが解任されてしまうと、98年W杯の予選スタ−ト(97年3月から)まで残された時間が多くないことにようやく気付いた日本サッカ−協会は、前任のファルカンの解任理由を「外国人監督だったので、コミュニケ−ション不足、言葉の壁が大きかった」として、日本人監督のなかでは最も豊富な経験と実績を持つ加茂周を監督とした。
しかし、これにはウラがあってW杯予選が始まるまでの約2年を、日本人監督と外国人監督に一年交替で任せて、結果と内容の良かったほうに、W杯予選の指揮権を任せるといった世界的に見ても前例のない非常識な決定方法に基づいたものだった。選手にしてみれば、一年で交替することが決まっている監督に対して絶対の信頼を置くことができるだろうか。答えは間違いなくノ−である。後に様々な問題を引き起こす、加茂ジャパンはこのような形でスタ−トした。
加茂の戦術的特徴は、当時ヨ−ロッパで流行していたゾ−ンプレスにあった。ゾ−ンプレスとは簡単に言うとボ−ルを持っている選手を守備側が複数の選手で囲いこんでボ−ルを奪取し、できるだけ少ない手数でゴ−ルを目指すというもので、横浜フリュ−ゲルスの監督をしていた頃から実践し、得意としていたものだった。しかし、この戦術は極めて約束事が多く複雑で、習得するまでかなりの時間が必要とされていた。事実、ゾ−ンプレス戦術の提唱者であるイタリア人のサッキも練習時間が豊富にあるクラブチ−ムではともかく、時間が限られている代表チ−ムでは完成させることはできなかった。
しかし、若い選手の成長もあってアジアではトップクラスであったが国際レベルの相手には通じないことが、インタ−コンチネンタル選手権(ナイジェリア3−0日本、アルゼンチン5−1日本)や、アンブロカップ(イングランド2−1日本、ブラジル3−0日本)で明らかになってしまう。
この結果を受けて、代表監督の選考を担当する強化委員会は加茂ではアジア地区予選を勝ち抜けないし、日本が今後目標としていくサッカ−を作り上げていくことができないと判断したことから、加茂を解任して日本で実績を残した外国人監督を後任とすることを決めた。
ここで起こった混乱に満ちた後任監督選考については、後で述べることにするが、結局すったもんだの挙げ句に加茂が続投することで決着した。
◆アトランタオリンピック
Jリ−グが始まったことにより、全員がプロという豊富なタレントが集まったアトランタ五輪代表は、本大会出場を確実しされていた。大きな期待が集まるなか、西野朗監督(現柏レイソル監督)に率いられたチ−ムは、アジア一次予選を圧倒的な強さで突破。最終予選に駒を進める。
96年3月にマレ−シアで行なわれた最終予選では、キャプテンでエ−スFWの小倉を怪我で欠くなど、様々な困難が降り掛かったが、後を引き継いだ前薗を中心として、見事に28年振りに五輪本大会への出場権を勝ち取った。
五輪本大会では予選リ−グで優勝候補筆頭のブラジルから「マイアミの奇跡」と呼ばれる勝利を挙げるなど2勝1敗の成績を収めるが、得失点差で決勝ト−ナメントに進むことはできなかった。
しかし、世界を相手に日本のサッカ−の存在をアピ−ルでき、2年後のW杯出場への布石になった。
◆Jリ−グ(95〜96)
この頃から、Jリ−グの観客数がやや減少傾向を示すようになり、人気に翳りが見られるようになっていく。
これには主にふたつの理由が考えられる。ひとつは、リ−グ戦の開催方法が毎年のように変更したため、一般のファンには分かりづらいものだったこと。もうひとつは、ファンの目が肥えてきて、Jリ−グレベルのサッカ−に物足りなくなってしまったと言える。
特に後者については、94年のアメリカW杯やそのあと日本のエ−ス三浦和義がイタリアのセリエAに移籍したことで、世界レベルのサッカ−が気軽に見られるようになったため、スタジアムに直接行かなくなってしまった。しかし、実際には現役の代表クラスの外国人が多数来日したことで、レベルは以前よりも確実に上がっていた。
95年のJリ−グを制したのは、前年度王者のヴェルディを破った横浜マリノスで、翌96年は鹿島アントラ−ズが勝つなどヴェルディ川崎が強かった時代は終わりを告げた。
◆加茂ジャパン・後期(96〜97/10)
紆余曲折を経て再出発した加茂ジャパンではあったが、明るい先行きは見えなかった。彼の掲げるゾ−ンプレスサッカ−は対戦相手に研究され、もうアジアの中であっても有効な戦術ではなくなっていた。それが端的に表れたのは、96年のアジアカップ決勝の対クウェ−ト戦で、両サイドバックの動きを押さえ込まれた日本は攻守両面で精彩を欠き、0−2で敗れてしまう。
この日を境に加茂ジャパンはさらに混迷を深めていく。戦いの根幹を成したいたゾ−ンプレスの掛かりやすいフォ−メ−ションを捨てて、より守備を重視した陣形へ変更する。自らの長所である攻撃力に富んだ戦い方を放棄することで、戦力的には一歩抜きんでいたはずのアジア最終予選が非常に苦しい戦いになっていった。
韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタンの各国とホ−ム&アウェ−で戦い、一位であれば無条件でフランスW杯の出場権を獲得できるが、二位になってしまうと、もうひとつのグル−プの同じく二位になった国と第三代表の座をかけて決定戦を行なうことになっていた。
初戦のウズベキスタン戦こそ6−3で勝利を収めるが、その試合でも後半だけみれば2−3で負けていた。続くアウェ−のUAE戦を引き分けると、三戦目の韓国戦ではホ−ムで敗れてしまう。特に韓国戦での負け方が悪く、試合終了間際に失点してしまうという悔いが残るゲ−ムで、チ−ムの雰囲気は急速に悪化していった。
そして第四戦のアウェ−のカザフスタン戦でも終了間際の失点で引き分けると、日本サッカ−協会は加茂監督解任と岡田コ−チの監督昇格を発表する。
◆岡田ジャパン前期(アジア最終予選)
加茂監督の解任、岡田武史(現コンサド−レ札幌監督)の昇格はカザフスタン戦が終了した数時間後に発表された。第五戦のウズベキスタン戦は日本に戻らず転戦することが分かっていた為、この人事は暫定的な措置だと思われていた。Jリ−グですら監督経験のない人物に、フランスW杯の出場権だけではなく、日本サッカ−の命運がかかる残り試合の采配をまかせるのは、無謀以外の何物でもない。日本に帰った時点で、新しい監督を迎えるものだと考えられていた。ところが、日本に帰ってきてからも状況に変化はなく、岡田監督は予選が終わるまで続投することが決まってしまった。
岡田が監督に就任してからもウズベキスタン、ホ−ムでのUAEと引き分けてしまうなど、表面上変化は感じられなかった。特にUAE戦は勝てば自力で二位になれるところだっただけに、サポ−タ−の怒りは大きく、試合後日本チ−ムのバスは囲まれて身動きが取れなくなったところに石や卵が投げ付けられるなど、さながら暴動のような騒ぎが起きてしまう。
流れが変わったのは、アウェ−での韓国戦からだった。過去の日本と韓国の対戦成績は9勝14分33敗と圧倒的に分の悪い相手で、しかも、韓国は日本に対しては石にかじりついてでも勝ちにくるチ−ムである。過去の遺恨がそうさせているのだが、日本に負けようものなら、世論はチ−ムに対して怒号のような非難を浴びせるので、絶対に手を抜いてくることがない。しかし、この試合だけは様々な要因から、韓国は日本に対して殺気じみた闘志を身に纏ってくることはなかった。
さらに日本の追い風となったのは、韓国国内から湧いてきた「2002年日韓共同開催のW杯を成功させるためにも、日本に勝たせるべきだ」という声であった。こうした声が普通のチ−ム以上に気持ちで戦う韓国代表から、モチベ−ションを奪ってしまうことは明らかであった。
結果として日本は2−0で韓国に勝利する。戦う気持ちを失いかけていた日本は、13年と31日ぶりになる敵地での韓国戦の勝利によって、再び自信と力強さを取り戻した。自らのミスで掴み損なった流れを、日本はもう一度引き寄せたのである。そして最終戦のカザフスタン戦を5−1と圧勝した日本はグル−プ二位の座を勝ち取り、マレ−シアで行なわれるアジア第3代表定戦に駒を進めた。相手はアジア地区最強の攻撃力を持つタレントを揃えたイランであった。
この試合は日本代表が誰を中心として動いているのかを、端的に表していた。延長の末3−2でイランを下したこの試合で日本の攻撃陣をリ−ドしていたのはそれまでのエ−スであった三浦和義ではなく、弱冠20歳の中田英寿だった。中田は17歳でワ−ルドユ−ス、19歳でアトランタオリンピックと年齢でわけられるカテゴリ−のすべての大会に出場しており、日本代表の全選手のなかで最も多くの国際舞台での経験を積んでいた。数多くの修羅場をくぐった経験が、中田に国際レベルの選手になるために必要な技術を身につけさせていた。日本サッカ−協会が強化の最重要課題として取り組んでいた、若年層のレベルアップがこの土壇場で結実していたのである。
◆岡田ジャパン・後期(フランスW杯)
フランスW杯出場を決めたことで、あまりにも歓喜の声が溢れかえったために、日本代表が抱えた問題点は表面的には見えなくなってしまっていた。アジア最終予選のウズベキスタン戦の後に交代するはずだった岡田は、日本サッカ−協会の「2002年に向けて経験を積ませたい」との意向から本大会まで続投することが決まる。さらに協会は、監督を岡田に決めたことで満足したかのように、98年になってからの強化をまるで図ろうとはしなかった。結局、日本は94年のアメリカW杯予選でも、フランスW杯予選でも最終成績は3位にしかすぎず、アジアの代表枠が拡大したことで出場できただけである。
世界的にはサッカ−後進地域であるアジアの第3代表が、たいした強化も行なわないのに、国際舞台で強豪国と互角戦える都合の良い話は存在しない。岡田は、身体的に強い選手をベ−スに守備を固めて、少ないチャンスに勝機を見いだす作戦を採ったが、望んだような海外遠征と強豪国との試合をこなすことができずに世界レベルには手が届かなかった。
その結果、本大会ではグル−プリ−グで3戦3敗と当然の結末を迎える。特に当初は、日本よりも格が下だと思われていたジャマイカは本大会出場が決まってからも精力的に海外遠征を実施したことで急速に実力をあげたため、日本は結果だけでなく内容でも完敗を喫してしまう。
この結果を受けて、岡田は責任を取って代表監督から辞任する。協会は必死で引き止めようとしたものの岡田の決意を引っ繰り返すことはできなかった。この時点で、協会が岡田を続投させるときに掲げた2002年へ経験を積ますという目論みは崩れ去ったことになる。
◆Jリ−グ(97・98・99)
以前から続いていた観客の減少傾向は歯止めが掛からず、営業努力を怠っていたチ−ムは危機に直面するようになる。多くのチ−ムが大物外国人を雇い続けることができなくなり、ピッチから華やかさが失われていった。
しかし、高い素質を持った若手選手が芽を出してきて、徐々に注目を集めてていったし、外国人も名より実を取った選手が増えていくなど、リ−グとしては正常な進化を遂げていた。Jリ−グはJ1とJ2に明確に線引きされ、入れ替え戦が行なわれるようになったことで、リ−グに優勝争いといった従来の楽しみに加え、緊張感を伴った降格争いにも焦点が当たるようになった。
様々な問題を抱えながらも、Jリ−グは着々と地域密着というスロ−ガンに沿うように前進しているかに見えた。そんなJリ−グに激震が走ったのは98年の暮れのことだった。Jリ−グに初年度から参加していた横浜フリュ−ゲルスが、親会社のひとつである中堅ゼネコンの佐藤工業の業績不振の煽りを受けてチ−ム運営を続けていくことが不可能になり、同じ横浜を本拠地にする横浜マリノスに吸収合併されることが発表された。
確かに、赤字経営を続けても親会社からの補填でごまかしてきた運営方法にも大きな問題はあったし、他の国のリ−グでも同じ街のチ−ムが合併すること自体はよくあることだ。実際に清水エスパルスは96年から97年にかけて、チ−ム解散寸前まで追い詰められていた。しかし、市民やサポ−タ−が一丸となって様々な解決への努力を続けたことで、見事に更正して99年には2ndステ−ジで優勝を遂げた。
横浜フリュ−ゲルスの経営陣はこのような解決方法をとる努力もせず、安易に合併を選択していた。そこには現場の選手やスタッフ、そしてチ−ムを精一杯応援していたサポ−タ−は入り込む余地は無かった。全てが決定してから発表されたからだ。サポ−タ−達は署名を集めたり、チ−ム運営会社と話し合いなどを続けたが、彼らの愛したチ−ムは99年元旦に行なわれた天皇杯に優勝してその歴史に幕を閉じた。その後、横浜フリュ−ゲルス存続に動き続けたグル−プは、新たに横浜FCという大企業の論理に振り回されることのない、本当に地域に密着したチ−ムを立ち上げて、現在もJリ−グに昇格することを目指して戦い続けている。
そして、97年はジュビロ磐田、98年鹿島アントラ−ズ、99年は再びジュビロ磐田といった本当にチ−ム強化に地道な努力を続けてきたチ−ムが2強時代を形成し、覇権を争った。
◆トゥルシエジャパン(98〜)
フランスW杯後に辞任した岡田の後任として選ばれたのは、アフリカ各国の代表を率いて実績を残してきたフランス人のフィリップ・トゥルシエであった。何故、アジアとはまったく関係ない場所でキャリアのほとんどを過ごしていたトゥルシエになったのかというと、監督候補の本命であった同じフランス人のベンゲル(イングランドの現ア−セナル監督)の推薦があったからだと囁かれ、ベンゲルまでのつなぎだという声は決して少なくなかった。そしてトゥルシエの首筋には以前のどの代表監督よりも、常に冷たい風が吹いている。
トゥルシエは日本の代表監督としては珍しく、ユ−ス代表(20歳以下)、五輪代表(23歳以下)、A代表(年令制限なし)の3つのカテゴリ−で指揮することになり、W杯後重要な試合が少なくなったA代表ではなく、99年にナイジェリアであるワ−ルドユ−スの本大会と、2000年にシドニ−である五輪の本大会で好成績を収めることがノルマとして課せられていたため、まず若い年代の代表からコ−チングを開始することになる。
よくトゥルシエの戦術の中核を成すものとして有名なのはフラット3と呼ばれる守備の戦術である。これは3人のディフェンダ−で最終ラインを守りつつ、オフサイドトラップを積極的に狙うことで人数的な不利を補うもので非常にリスクが高い。しかし、中田や18歳でフランスW杯に出場した小野伸二を筆頭とする高い能力を持った選手がミッドフィ−ルドに集中していることから、なるべく多くの選手をミッドフィ−ルドに置きたいという狙いがあり必然的にディフェンダ−に選手を割けないという点を解消するために導入した。
そもそも、3人のディフェンダ−でゾ−ンディフェンス(相手選手ではなく受け持ったゾ−ンを意識して守る守備)をおこなうこと自体、これまでの日本では不可能なことだった。もちろん世界で例の無いことではなかったが、世界的に見ても最先端の戦術で、日本でそれが実現できるとは誰も思ってはいなか った。しかし、ユ−ス代表・五輪代表ではいとも簡単に、実戦で効果をあげるレベルまで達してしまう。そこが以前に比べて戦術理解度が特に若年層で大きく進んだ成果である。
さらに日本は若い世代では、技術的な底上げが集団的なレベルで進んでいる。パスやトラップの精度、パスのスピ−ドなどはここ数年の間に大きく進歩している。これに大きく貢献したのがJリ−グである。各チ−ムがJリ−グに参加するための条件の一つにユ−スチ−ムを持っていることが必須事項であった。ユ−スチ−ムは高校サッカ−とは異なり、目先の勝利に捉われる事無く、選手の育成を進められるために高い技術や戦術眼を持った選手が、Jリ−グでレギュラ−を取るようになってきている。こういった選手がユ−ス代表の中核を成していたこともあって、ワ−ルドユ−スで準優勝という日本がこのレベルでは世界レベルに達したことを証明する結果となった。
そのうえの世代である五輪代表も、前回大会には出場するために最後まで苦労していたのだが、今回のアジア予選では比べものにならないくらいアッサリと出場を勝ち取り、シドニ−本大会でも予選を突破して決勝ト−ナメントに進出した。
これからのトゥルシエの仕事は2002年のW杯まで契約を延長したことが決まったことから、強化がほおって置かれていたA代表を下の年代と融合を図りつつ、本大会でベスト8を狙えるチ−ム作りを進めていかなければならないだろう。そのためには、いかに効果的な強化日程を作り、こなしていけるかが鍵になってくる。これまで対立してきたJリ−グ側と協力態勢が築けなければ、より困難な目標となるかもしれないが、新しい歴史が作られていくことを大きな期待と共に見守っていきたい。
◆監督選考
日本代表監督の選考ほど、謎に満ちた過程の存在は無い。オフトが選出された理由は「W杯に出場できるような手腕を持った人物選んだ」と述べられ、事実、W杯の出場を逃したときに辞任した。次のファルカンは「修羅場をくぐった経験のある世界的な監督」として選ばれたが、コミュニケ−ションの問題等さまざまな理由からわずか半年で解任される。
言葉の壁が大きかったとの反省から選ばれたのは、日本人の加茂だった。確かに日本人なら言葉の問題はないだろうが、あまりにも安易な選択だったといえないだろうか。加茂の実績はJリ−グの前の日本リ−グ時代に集中しており、Jリ−グになってからは天皇杯の優勝が一度だけという点は考慮されなかった。しかし、代表監督の仕事内容を検討する機関である強化委員会は、早くから手腕に疑問を持ち、95年10月に加茂監督は更迭するべきという報告書を日本サッカ−協会会長の長沼に提出し、後任監督選びを始めた。
当時、Jリ−グで最強の呼び声高かったヴェルディ川崎の監督であったブラジル人のネルシ−ニョに絞って交渉が始まった。当初、金銭面で折り合わなかったがネルシ−ニョ側が折れる事で交渉はほぼまとまろうとしていた。その矢先に、長沼会長が加茂続投を発表する。まず怒ったのはネルシ−ニョだった。本気で日本代表の監督になるつもりだったから、「会長の長沼と副会長の川淵は腐った存在だ」と言い放ち、日本を去っていった。
強化委員会は全員辞意を表明し、ネルシ−ニョの要求額を上回る金額で加茂は再契約を結んだ。長沼は「(加茂監督で)フランスに行けなければ、私が会長を辞めますよ」と言い放った。協会の会長が責任を取ったところで、日本のサッカ−史が書きかわる訳ではないし、初出場が自国開催で予選免除されたから出場できたという屈辱以外の何物でもない事実が消えるわけでもない。
強化委員会が機能しなくなってからは加茂から岡田に変わったときも、岡田が続投すると決めた時もはっきりしたビジョンを示すことができなかった。トゥルシエが就任した時には「94年のW杯でブラジルが優勝したから、ブラジル人を呼んで半年で解任した。98年のW杯ではフランスが優勝したから、フランス人を呼んできたのか。また半年で解任するんだろう」と他国から言われたという。あまりにも安易で、それでいて不透明な監督選考。協会のトップには日本代表は国際大会になると50%以上の視聴率を取る、常に注目されるスポ−ツであるという認識はないのだろうか。ちなみに長沼と加茂はおなじ大学の出身で、日本サッカ−協会にはこのような学閥がはびこっているという。
◆2002年日韓共同W杯
現時点で、2002年W杯の結果を予想することは難しい。しかし、2002年までのトゥルシエの続投が決まったことで、戦い方は予測することができるので考えてみると、フラット3のディフェンスは最近になってサイドからの攻撃に特に弱いことがあきらかになりつつあり、どのように修正していくのか興味深い。3バックでのディフェンスは変わらないだろうから、個々の選手の組合せや左右のウイングバックの選手との関係を試していくだろう。中盤は現時点でもほぼできあがっているし、質の高さでは世界の一流国にも決して引けを取らない。層も厚く、今は代表に選ばれていない選手も高い資質を持っており、代表のレギュラ−陣も安泰であるとは決していえないほどである。問題は前線、つまりFWの決定力不足にある。かつてカズこと三浦が君臨していた頃に比べると、まだまだ力不足であることは否めない。というのも、日本の指導者は、高いテクニックを持った選手を中盤で使う傾向があるために、突然変異であったカズのような選手は生まれにくい。しかし、徐々にではあるがゴ−ルへ向う強い気持ちを持った選手が台頭してきた。選手の組合せや、コンビネ−ションを高めていくことで決定力不足という日本の持病が治っていくことを期待したい。
サッカ−の強さとは、数字で表すことができる類の物では無い。その時々の相対的な力関係や、ほんのわずかな運が入り込んでくるものであり、内容と結果が結びつかないことも多々ある。結果と内容のどちらを重要視するかに、国民性の違いすら用いて語られるほどサッカ−は世界中に根付いている。日本が本気で世界の強豪国になろうと試みてから、十年と経ってはいないことを考えれば、日本代表とJリ−グがどのように進化していくのかを予想するのは簡単ではないが、楽しさやおもしろさに満ちた存在になってほしい。サッカ−を心から楽しみにしている日本人からのささやかな願いである。