学部
後期

創作・評論演習IB

批評的思考・表現方法の強化

創作・評論演習IAで身に付けた批評の方法を元に発表者が自ら選んだテクストについての発表を行い、討論する。
発表・討論の手順については創作・評論演習IAと同じである。

演習を進めていく手順は演習IAと同じである。

(9月21日 祝日のために休み)

第1回 9月28日
 発表予定の決定
第2回 10月5日
 参加者による選んだテキストの紹介

(10月12日 祝日のため休み)

第3回 10月19日
 発表1 谷崎潤一郎「春琴抄」 担当者:末澤通啓
第4回 10月26日
 発表2 三島由紀夫「クロスワード・パズル」 担当者:丸山佳純

(11月2日 大学祭のため休み)

第5回 11月9日
 発表3 村上龍「限りなく透明に近いブルー」 担当者:宇野聖太
第6回 11月16日
 発表4 ドストエフスキー「地下室の手記」 担当者:末澤通啓

(11月23日 祝日のため休み)

第7回 11月30日
 発表5 川端康成「母の初恋」 担当者:丸山佳純
第8回 12月7日
 発表6 チャンドラー「大いなる眠り」 担当者:宇野聖太
第9回 12月14日
 発表7 岡本かの子「老妓抄」または「鮨」 担当者:末澤通啓
第10回 12月21日
 ここまでのまとめ
第11回 12月24日(木)
 発表8 織田作之助「夫婦善哉」 担当者:丸山佳純
第12回 1月14日(木)
 発表9 夢野久作「少女地獄」 担当者:宇野聖太
第13回 1月18日
 卒業論文・卒業制作について
第14回 1月25日
 まとめ


授業は終了しました


授業レポート

岡本かの子「鮨」について

丸山佳純

ともよは〈神聖〉な存在として位置づけられている。
というのも、物語冒頭に「東京の下町と山の手の境い目」や「別天地」というような境界描写があるからだ。
客たちは境界をわたり、鮨屋に行く。そしていつもの自分とは違う自分をふるまう。「別天地」であるから、そうする。
その「別天地」に住むともよは客たちにとってまさに〈神聖〉な存在である。
ともよが客を介して世間を捉えている点も境界の先(俗世間)との縁の薄さを感じさせてそう考えさせる。
また、「新陳代謝」のように「軽く触れては慰められて行く」客たちにまつりあげられているとも思われる。
ともよは「別天地」の〈神聖〉なものであるが、下世話にいえばホステスなのである。

天女の羽衣伝説というものがある。地上に降りた天女が羽衣をとられただの女になるという話だ。
最終的には羽衣は天女にもどされ天女は戻っていくというものであるが、ともよは〈神聖〉なものとして天女という存在にも近い。
ともよも境界をでればただの女となる。「鮨屋の娘」ということに恥じらいをもち友達をよせつけないようにしている。外の者と平等なところにいたいという思いだ。
しかし、隠し切れてはいない。彼女の性格、性質は境界の向こうのものである。やはり違うと思われるのである。(天女の場合隠し切れていないのは美貌であるが)
ともよはこのように他の者とは違うものとしてあつかわれている。

ではともよと湊の関係とは。
ともよに軸をおいて考えるならば、湊はともよにとっての異分子である。
ともよのテリトリーにはいってきた「職業は誰にも判ら」ない不確定な存在。
あるいは「別天地」にはいりこんできた〈生死の匂い〉を漂わす存在であり、自分の存在を揺るがす存在なのである。
(生死については発表、討論などであった河鹿とゴーストフィッシュの対比からの老いと若さの話であるが、湊の老いがあるからこそともよの若さがでてくるのであって〈匂い〉は湊のものであると思われる。)
その点でともよは湊を意識するのである。うまく受け入れられない。消化不良なのであろう。
だからこそ湊の話が必要になるのかもしれない。ともよは自分の〈神聖〉な存在を維持するために湊を知ろうとするのである。
境界をでたところで話を聞くのは湊と対等な立場に立つためであろう。話を聞いたともよは湊の存在を消化し、湊がいなくなっても〈神聖〉なままでいられるようになる。
しかしながら、病院の跡地という場所は湊の〈匂い〉を強く感じさせる場所であるため、余韻がともよのなかでしばらくあり続ける。
最終的に湊がどうなったかは言及しないが、ともよにとってはその存在は他の客と同じように「新陳代謝」していくものであると位置づけられたのである。


岡本かの子「鮨」

宇野聖太

 この作品を論じるにあたって、「鮨」に言及しないわけにはいかないだろう。「鮨」とは、酢飯の上に新鮮な魚介類の切り身を乗せて食べる料理である。鮮度が命なのだ。私は、この作品におけるメインテーマは「鮮度」であると読んだ。
 作品に登場する鮨屋「福ずし」は、都会と自然の狭間に存在する。都会とは、資本主義社会によって構築されたものである。その都会から、客が繁華な刺激に疲れて、癒しを求めにやって来る。その客達には共通するものがあった、「後ろからも前からもぎりぎりに生活の現実に詰め寄られている」ということだ。詰め寄ってくる生活の現実とは何だろうか?それは、資本主義による生活の厳しさに他ならない。そのようにして店に来る客には、常連になる人達がいる。元狩猟銃器店の主人、デパート外客廻り係長、歯科医師、畳屋の倅、電話のブローカー等々、ここに描かれる常連たちは全て、商売人である。常連の中に、教師や役人、警察官等がいても良さそうなものだが、徹底して商売人である。商売人ほど資本に近しい存在もない。常連客の中に劇団の芸人という者もあるが、彼は自分を偽り、装うことで興業を行う立派な商売人である。彼の鮨を掴む手は絹もののぞろりとした服とは違い、青白い。装うことにばかり金をかけて、食事もろくに取っていない芸人像というのは、深読みがすぎるだろうか。その常連たちは、「福すし」に来ては、くだらなくばかになったり、裸になったり、仮装したり…と、まるで商売のために笑顔を作り、身なりを装って資本を増やそうとしている自分から逃げ出さんばかりの所作である。しかし、客の間では「現実から隠れんぼうをしているような者同士の一種の親しさ」があるため、誰も軽蔑したりなどしない。
 「福すし」には看板娘がいる。この作品の主人公でもある「ともよ」だ。ともよは、「無邪気に育てられ、表面だけだが世事に通じ、痛快でそして孤独的なものを持っている。(中略)男に対してだけは、ずばずば応対して女の子らしい羞らいも、作為の態度もない」ような性格の女の子である。そのともよが、「福すし」でお客たちにお茶を出したり、情事めいた事で揶揄われ、その応対をしたりしている。給仕として、立派に看板娘をやりとげている。しかし、彼女は資本を増やすために仕事をしているわけではないし(「店のサーヴィスを義務とも辛抱とも感じなかった」)、女性として身体が発育しているわけでもない(「胸も腰もつくろわない少女じみたカシミヤの制服を着て」)。そのようなともよは資本とは別の流れのなかで「福すし」にいる。それに接した客は「仄かな明るいものを自分の気持ちのなかに点じられ」、癒されるのだろう。
 ともよは、遠足会で多摩川べりに行くシーンで自分のことを象徴的に捉えている。多摩川の流れの中で、鮒が流れてきては杭根の苔をはんで、また流れて行く、しかし、いつも若干の同じ魚がそこに遊んでいるかとも思える。それを見ながら、自分の客の新陳代謝を想起するのだ。そして、杭根のみどりの苔は自分のようだと感じる。流れて行く資本主義社会の中で癒しを与え、新陳代謝を促す存在だと考える。この新陳代謝とは面白い表現ではないか。真に資本主義の流れとは、疲弊と生産、回復の新陳代謝である。その新陳代謝の中で、若者であった人間は老いていく。モラトリアム期であるともよは、流れの中にありながら資本主義の新陳代謝の埒外なのである。
 しかし、ともよは完全に資本主義の流れの外にいるのではない。ともよは両親の「まわりに浸々と押し寄せてくる、知識的な空気に対して、(中略)社会への競争的なもの」を持っている意向から、「とにかく教育だけはしとかなくては」と、女学校に入れられていた。ともよは、単にモラトリアム期にいるだけであって、この後、資本の流れの中に身を投じなければならないのだ。ともよは、その流れの新陳代謝を、入る前から知ってしまった子供なのである。
 「福すし」に来る常連の中に湊という男がいる。50過ぎぐらい壮年者にも見え、諦念を持った人にも見える。独身であり、常連客には先生とよばれている。 潔癖であり、店に来ては奥座敷を通して眼に入る裏の谷合の木がくれの沢地か、椎の葉の茂みかを眺める。後にわかる事だが、彼は50近くで、投棄によりかなり儲け、一生独りの生活には事欠かない状態である。彼も、資本の流れの埒外の人間だ。そのため、他の常連からは先生と呼ばれるのかもしれない。また、殊更に店の奥の自然を眺めるのも、資本社会への厭世観念から来るものかもしれない。ともよは、湊に不思議な興味を覚え、目を合わせたり、興味を惹こうとしたりする。それは恋愛感情から来るものというよりも、同族への興味からだったのではないだろうか? 湊は、資本を経験した人間なので、他の常連達への愛想を振りまくという処世術を心得ている。しかし、それはともよが、自分の存在を保障する親のために、自己存在を確立するために行って来た行為と同じものである。そのため、そのような湊にともよは嫉妬する。しかし、湊に見つめられると、その自己を支える力をぼかされている気がするのだ。逆に、湊に見つめられると両親にない温かみを感じるのは、そのような力抜きで自分の存在を証明してくれているような気がするからではないだろうか。実際、資本主義社会において、個人のアイデンティティというものは限りなく希薄である。自己の存在は資本を生み出す流れの中にしか確立しがたい。それをともよは見ぬいており、そのように振舞ってきた。しかし、湊はそれ以外のともよにともよの存在を見てくれたのではないか。
 そして、ともよが湊と外で会うことによって、湊の過去を知ることになる。湊は、没落する家で末っ子として生まれた。生まれた時から、家が没落することを悟っていた湊もまた、モラトリアム期に資本主義の恐ろしさをまざまざと体験した子供なのである。そして、湊は食事をする事、すなわち新陳代謝を拒む。食事をすることで、家として食費を消費することはもちろん、栄養をとり、成長することで没落する家にいながら資本主義の流れに身を投じる約束をしてしまうことになるのだ。そして、新陳代謝によって老いる、つまりは没落する。湊にとって食べることは没落へ向かうことと同義なのであった。湊の精神は、迷惑をかけることを嫌がっているが、肉体がいうことをきかない。それを見かねた母親は、ある料理によって湊に食事をさせる事に成功する。それが、鮨なのであった。前述したように鮨は鮮度が命なのである。新鮮なものを取り込むことは没落への意識を和らげ、湊は食事を取れるようになる。それは、湊が新陳代謝への拒絶を諦めた瞬間だったのかもしれない。食事を取れるようになった湊は美しく逞しい少年となるが、父親に遊びを教えられ、道楽者となってしまう。それを母親は父親のせいにし、喧嘩をすることで没落への鬱憤を晴らす。このような中で、湊の厭世感は築きあげられたのではないか。世の中に対して厭世観を持っている湊は家庭を持つことを嫌い、独身ですごす。そして、生きる上での癒しは新陳代謝を遅らせるように感じる鮨を食べることになったのだ。
 ともよは、湊に会ってどのように変わるのであろうか。ともよと湊は類似する境遇でありながら、異なる部分がある。湊が没落する家庭で育った事に対し、ともよは、これから繁盛していくであろう鮨屋で育っているのだ。しかし、この作品が資本主義の行く末を伝えているのならば、その先は老い、没落でしかない。湊がともよに与えたものは、資本主義社会の外にあるともよの存在であった。それは、この作品が徹底的に拒絶している世界の外にある希望なのかもしれない。


夢野久作「何んでも無い」(「少女地獄」より)

末澤通啓

「何んでも無い」を読んで大変に違和感を感じたので、その違和感について考えたい。
「何んでも無い」は書簡体という形式を取っている。しかし通常の書簡体小説とは異なっていると考えられる。
通常の書簡体小説(私のイメージでは)、まず手紙の出してである語り手が、手紙の中で、ある事柄について読者に語る。そしてそこには読者に対して絶対の優位性が存在する。他の形式の小説でも、当たり前のことだが、読者はこれから語られる事柄に対して全く情報がない、それに対してこれも当たり前のことだが、語り手は反対に全てを把握している。そしてその語られることに対して、嘘があったとしても読者はそれに気づくことができない。ただそれを事実として受け入れるしかない。
書簡体作品の例として、久生十蘭の「湖畔」という作品を挙げたい。この小説は父親から息子に宛てた手紙という形式である。そしてその冒頭において、妻は私が殺した、という述懐がなされているのだが、物語の終わりでは、実は妻を殺してはいないことが明らかになる。このように、この小説において出来事の主導権を握っているのは、完全に語り手であるということがわかる。
しかし同じ書簡体小説でも、「何んでも無い」に関しては、全く異なっている。まず、手紙を書いている臼杵という語り手が、その手紙を書いている時点でさえも「女」の正体や、何が嘘で、何が本当であったのか、把握できていない。そして語り手である臼杵がその真偽を判断できない以上、読者にも何が嘘で、何が本当か判断できない。それどころか未だにその「女」の影が主人公に付きまとっている。その状態のまま、語り手は手紙を書いている。
この小説の語り手と読者の間には、先ほど挙げた「湖畔」ほどの優位性は存在しておらず、ただあいまいな関係性があるだけだ。そもそもこの語り手、臼杵は、作中で起こる出来事に関して、当事者であるにも関わらず、その場に立ち会っていないのである。例えば、一番最初に、語られる姫草ユリ子の自殺という情報に関しても、結局は他人から聞いた、伝聞形式でそれを知っているのだから。そしてその真偽を確かめるすべはなく、相手の話を信じるしかないという状況になっている。
その他にも白鷹夫人の、ユリ子についての電話に応対したのも臼杵ではなく、そういう内容の電話が掛かってきたことを聞いたに過ぎない。
結局、臼杵はユリ子に関しての情報は全て伝聞形式で知っている。そして臼杵はそれを信じるしかない。これは書簡体という形式と似ていると考えた。ユリ子について、これが真実である、と言われれば、それを信じるしかない。それ以外に情報がないのだから。つまりこの小説の語り手、臼杵も通常の書簡体小説のように限られた情報で、ユリ子の人間性を判断せねばならず、さらにこの「何んでも無い」という小説の読者は、その限られた情報から判断した臼杵からの、さらに限られた情報を提示されるのである。
限られた情報の、さらに限られた情報。それがユリ子の全体像を歪めてしまったのだと 考える。そして、それが私の感じた違和感の正体だと考える。

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