学部
前期

創作・評論演習TA

批評的思考・表現方法の習得

昨年度の〈20世紀批評講読〉〈文芸批評史論B〉をふまえつつ、創作や評論を書く上で必要な批評的な思考・表現方法を小説やそれに対する評論を読むことで身につけていく。
演習は出席者による発表・討論からなる。出席者は予め演習の前に発表者に発表の題材である小説や評論についての質問を提出し、発表者はそれに答えつつ自分の見解を発表する。

第1回 4月13日
 演習の方法について(ガイダンス)
第2回 4月20日
 演習のテキストについて
第3回 4月27日
 自己紹介・発表担当者の決定

(5月4日 祝日のため休み)

第4回 5月11日
 志賀直哉「小僧の神様」を読む

(5月18日 新型インフルエンザ予防のため休講)

第5回 5月25日
 発表1 芥川龍之介「地獄変」 担当者:宇野聖太
第6回 6月1日
 発表2 横光利一「御身」 担当者:丸山佳純
第7回 6月8日
 発表3 横光利一「時間」 担当者:末澤通啓
第8回 6月15日
 発表4 永井荷風「墨東綺譚」 担当者:宇野聖太
第9回 6月22日
 発表5 太宰治「猿ヶ島」 担当者:丸山佳純
第10回 6月29日
 発表6 志賀直哉「濁った頭」 担当者:末澤通啓
第11回 7月6日
 発表7 太宰治「道化の華」 担当者:宇野聖太
第12回 7月13日
 発表8 太宰治「八十八夜」 担当者:末澤通啓
第13回 7月16日(木)
 発表9 志賀直哉「流行感冒」 担当者:丸山佳純

授業は終了しました


授業レポート

末雄の愛情についてのまとめ

丸山佳純

「御身」について考える際、大方は姪に対する末雄の愛情を一番に注目するだろう。ここで私が留意したいのは末雄の愛情が恋愛小説のようにふってわいたものではなく、近親からゆっくりと移動してきた愛情であるということだ。これはオイディプス・コンプレックスという形をとっての近親相姦的な愛情の移動であり、血縁関係があるからこそ姪への愛情が生まれてくるのである。もちろん最初は母親が異性の対象ではあったのだろうが、このときにはすでに末雄の対象は姉のおりかに移っていたものだと思われる。「御身」における末雄の愛情はそこから始まっていると考えていいだろう。ではどのように姪へと愛情が移動したかというと、それは物語前半を通して暗示的に書かれている。二章で姉と山に入った場面でつつじ抜きをしようとするが根が抜けずじまいとなる。このとき、つつじの根は姉と姪をつなぐへその緒を暗示している。これは末雄がまだ「姉がたいへん好き」な状態であり、姪への愛情は移動途中であることが表現されているとわかる。そして、へその緒が切れることによって末雄は姪へと視線をかえる。六章、七章にかけて書かれたへそについてのエピソードはへその緒というつながりがなくなったことを示しているのだ。姉から姪へと異性の視線をかえた末雄はここにおいて愛情の移動が完了となる。八章で姉・おりかの夫が名前で登場したという点で具体的にそのことが表現されていると思う。オイディプス・コンプレックスとセットである父殺しがこの時点で解放されたものであると考えられる。名前が出てきたのだからむしろ父殺しではないかとも考えられるが、意識的に姉の夫と呼ぶことで人間性を消しているのであり、名前を出すことで存在を認めるため父殺しから解放されていると読めるのである。

 さて、末雄の愛情は姪へと移ったわけであるがその愛情というのは最初から恋愛という形ではない。恋愛感情に発展するのは十二章からであるが、それ以前における末雄の愛情とは年上としてのものである。それはときに目下の者を支配したい亭主関白的な愛情であり、ときに親戚関係としての保護的な愛情である。四章の姪に覆いかぶさる行動や五章の姪を騙すことは支配欲的な愛情を、二章のお腹の姪を気にするところや五章の騙したことにおける後悔は叔父としての立場や、まだ未成熟な者同士としての味方という意識からの保護愛を表している。これは非常に矛盾していることである。なぜこのようなことになるのかというと、先に述べたように末雄がまだ未成熟な者であるためだ。学生というモラトリアムな時期にいるために末雄は大人でもなく子供でもない情緒不安定さを持っており矛盾を起こすのである。

 そして末雄の愛情は一方的な恋愛へとかわっていくのだが、これが十二章からと物語の終盤になる。なぜ終盤になるのかというと、これには末雄と姪・幸子の成長が関係していると思われる。十一章から十二章には約一年の期間があり、この間に姪は身体的に、末雄は精神的になにかしらの成長や変化をしていると考えられる。姪の場合は二才になり人間的な行動や考えを起こすようになる。そのためいままで末雄に対して起こさなかった行動を見せ、末雄に愛情を気づかせることとなるのである。そして末雄は姪の病気について考えることで精神的に変化を起こし愛情をも変化させていくのだ。その変化のために二年以上の歳月が必要となるため物語の終盤になったのだと考えられる。


(「墨東奇譚」について)

宇野聖太

前回の「墨東奇譚」の発表では参考文献が古かったことと、最初に見た文献が批判的だった影響を受けてテクスト論的でない批判形式の発表となった。 今回は、その反省を踏まえてテクスト論的にみた「墨東奇譚」の参考文献を用いて、まとめてみた。
発表の時間中に指摘を頂いた、境界としての橋と、ラジオについては、『永井荷風「墨東奇譚」作品論集成W』の、江藤 淳氏の「メタ・小説としての『墨東奇譚』(紅茶のあとさき十三)」から参照させてもらった。
まずラジオについて。
ラジオは、作品の中では騒音と九州弁の政談を発するところから嫌悪されている。
この騒音とは何のことか。
当時、(退廃的)流行歌を流していたラジオが、国民歌謡ばかり流すようになるという変化があった。
これは、国民歌謡を以て、国民に道徳を鼓吹しようとする政府の策略があった。
また、九州弁の政談とは福岡出身の首相広田弘毅の影響か、戒厳司令部の「兵に告ぐ」の呼びかけであることは間違いないだろう。
荷風は放送がア・プリオリに持っているこのような「政治と道徳の宣伝の具」という属性を嫌悪したのである。
また、ラジオと同じように嫌われているモノに文学者と新聞記者がある。
彼らは、一般的に信じられているような権力に反抗できる勢力などではない、という事を荷風は見抜いていた。
彼らはむしろ、政治的道徳のお先棒をかつぐような存在だったのである。
そのような文学者や新聞記者によって、銀座の言語空間は奪い去られた。
ラジオと記者によって汚染された水のこちら側と、自由な言語空間である向こう側の対比がこの小説のテクスト論的に読んだ場合の鍵といえる。
その境界がすみだ川に架けられた「橋」だったのである。
荷風は、ラジオと新聞記者を象徴して当時の「禁止された言語空間」を描きたかったのではないかと江藤氏は言っている。
本編の言語空間が「失踪」のそれのような自由な言語空間としては設定されず、複雑かつ多層的なかたちに構成した真意もそこにあった。
当時の言語空間が「自由」な小説のかたちでは描き得ないものになってしまっていることを、荷風は誰よりも鋭敏に、かつ痛切に察知していたからである。
「自由」な小説が書けないとはどういうことか。
つまり、「墨東奇譚」本文(お雪と初老の男性の交情)も、作中作「失踪」の逃避行も、戒厳令の最中の内務省警保局の検閲を触発する、また遊蕩小説が政治のお先棒担ぎである文学者と新聞記者の道徳的干渉を招くということである。
また荷風はそれ以上にこのような時代に自由な小説が成立するという錯誤に身をゆだねられなかった。
つまり、小説の言葉は、本来、政治や道徳を超越し、かつ相対化し得るものでなければならない。
しかし、文学が政治の道徳の宣伝の具となる時代にあっては、荷風のような物書きが同時代を描くとは、この言語空間の歪みとねじれを素材として言葉を持って言葉を描き、そこにメタ・小説を試みることでしか成り立たないのである。
それこそ荷風がこの作品で成したかった意図ではなかったか。
もうひとつ論じられるべき問題がある。
それは、荷風が木村荘八の絵が人気が出たことを嫌悪したと言う事である。
そして、私家版のほうには自分の撮った写真が載せられてある。
小説の冒頭に活動写真の批判があるが、ならば活動しない写真を用いた理由は何なのだろう。
写真は流れていく時間の凝縮した一瞬の場面を定着させたものであるということがよくわかる。
濃縮された時間を切り取った写真は見る者の記憶や知識、思想、想像力を喚起する。
そこには、意識的に喚起的装置が介入することになる。 それと「墨東奇譚」のあえて人間性を持たないような登場人物たちの動かされ方や、ストーリーを対比すると、雑多な小道具がむしろメインとして語られるようあ反小説的な方法が浮かび上がってくる。
それはまさに喚起的な写真のような手法である。
当時流行っていた私小説に多く見られる人物中心のストーリーは結末が重んじられるが、この小説は結末を描かないことに意識的である。
それは、半小説的手法であるが、小説という枠組みの中では「老小説家とお雪」というストーリーを持たなければならない矛盾を持つ。
その矛盾を解体する契機のために私家版には写真が組み込まれたのだ。
木村荘八の挿絵には人物がはっきりと描かれてあり、まさにドラマの最中であるから、荷風はこの絵の人気を気に食わなかったのである。
この私小説へのアンチ、ストーリーの解体も荷風がこの作品で行いたかったことであることは間違いないだろう。

最後に、自分のこのような発表の仕方を自己批判したいと思う。
私の発表は今のところ参考文献のコピペと変わりない。
この方法は発表としてはどうかわからないが、評論としては最低であることは間違いない。
発表の場においては、参考文献を書かれたプロの批評家の読みを紹介するのは有意義だと私は思う。
しかし、評論は自分の読みを立てるために参考文献を用いるべきだと思う。
なぜか、今の私は自分の読みよりも参考文献が先行している。
要するに読みが足りないのだと思う。
一読して参考文献に移り、まとめるともう時間がないというこの状況が良くないのだと思う。
後期はこの状態を改善して、本文を何度も読み返し、不明点は文学史などを参照し、最後に他の批評文を読むような、自分の読みありきの発表にしていきたいと思う。


(「流行感冒」について)

末澤通啓

志賀直哉の「流行感冒」を選択した。「流行感冒」は「衛生思想」と「噂」という二つの考えで出来事が起こっていると考えた。「衛生思想」についてはゼミで十分触れたと思うので、今回は「噂」ついてのみ考えていきたい。「噂」という単語自体は少なくとも四回は出ているのである。流行感冒・上では「噂」ではなく病気に対する「衛生思想」をほぼ中心に話が進んでいると考えられる。ちなみに最初の「噂」は小学校の運動会で病人の数が増えたという「噂」であった。流行感冒・下では、『三、四百人の女工を使っている町の製糸工場では四人死んだというような噂が一段落ついた話として話されていた。』つまり、流行感冒は「噂」の中ではおさまりつつあったのである。しかし現実ではその「噂」を信用したことから来る気の緩みによって、流行感冒にかかってしまうのである。また使用人の石の縁談話においても、最初に「噂」で聞いていた男性は、現実の石のお見合いの相手ではなかったということがあった。このように主人公は小説内で一番「噂」に翻弄されていた人物であると考えられる。しかし最後の石が去ってからの場面、主人公 とその妻のやり取りは石の「噂」話である。それは妻の今頃石は田舎でくしゃみをしているという発言からもわかる。このことから石が去ったことにより、主人公は子供への過保護さとその神経質さから「噂」に翻弄される人物から、最後の場面において「噂」をする立場に変わったのである。そして石のこの小説での役割は主人公に「噂」に対する耐性を持たせるための役割を担っていたのではないかと考えた。

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