平成19年度卒業制作
青く熱き者たち
04‐1‐81‐294
岡野 大志
目 次
プロローグ 三
第一章 熱愛発覚 六
第二章 非常事態 十四
第三章 最終決戦 二六
エピローグ 三七
注/テキスト・参考文献リスト 三八
プロローグ
いつになく風が心地良く肌に触れる、ある夏の夜の出来事だった。
大学通りの中ほどにある飲食店から、奥園竜一郎と初芝秀郎が出てきた。ひどく上機嫌な様子で、それでもしっかりした足取りで歩き始めた。
「いやぁ、これで明日からゆっくりできる」
初芝は大きく伸びをして、少々大きな声で言った。
「せやなぁ、今日のテスト終わったら前期終わりやもんなぁ」
奥園は対照的に静かに言った。
「あっ、そうや、夏休みにみんなで旅行行こうって言うてたけど、あれいつにしよっか?」
「それやったら、まだテストとかレポート終わってない人もおるやろうから、日にち決めて一回みんなで話し合って決めよっか?」
「せやなぁ、まぁ俺暇やから行く所色々見とこうかなぁ」
「お好きにどうぞ、でもお前の行きたい所がみんなの行きたい所とは限らへんってことを忘れんようにな」
「分かってるって。ただ選ぶのに困らんようにしようとしてるだけやから」
他愛のない会話を進めているうちに、二人は大学通りの入り口まで辿り着き、いつも利用する私鉄の駅が目の前に迫った。午後九時を過ぎたこともあって周囲に人影はほとんどなかった。この駅が賑わうのは日の出ている間で、それ以外の時間は寂しいぐらいにひっそりしている。
「次何時の電車がある?」
「えっと、次は……三十分後やな」
「三十分かぁ……だるいなぁ、何をして……」
初芝がさらに何か言おうとすると、彼らの横を一台の自転車が颯爽と通り過ぎた。男は重たい荷物を運ぶ要領で力いっぱい自転車を漕ぎ、女は振り落とされないように荷台にしっかり掴まって座っている。それ自体はそれほど珍しくはなかったのだが、チラリとしか見えなかったが二人乗りをしていた男女の顔にどこか見覚えがある気がして、彼らは二人から視線を外さなかった。そして何かの予感に導かれるようにして自転車の後を追った。自転車は上り改札口の右脇に止まっていて、それを挟んで男と女が何やら楽しそうに話している。駅の仄かな照明が先ほどは暗くてはっきり見えなかった二人の顔を鮮明に照らし出していた。それを目の当たりにした瞬間、初芝は思わず「アッ」と声が出そうになるのを無理矢理抑え、奥園は努めて音を立てないように驚いた。そして彼らは慌てて改札口から数メートル離れた雑居ビルの陰に隠れた。
「あれって、礒部と倉持やんなぁ?」
「あぁ、間違いないな」
「けど、いつの間に付き合い始めたん?」
「いや、まだ付き合ってるって決め付けるんは早いやろう。あんなん付き合ってなくても誰かて普通にしてるし」
「せやけどよう見てみ。なんかえらい楽しそうやで。特に倉持なんかメッチャ礒部のこと見つめてるやん。あれは間違いなく恋する女の目やで」
「お前そんなん分かんのん?」
「いや、なんとなく」
奥園は初芝の適当さに呆れたが、彼の言う通り女の目は憧れの俳優を目の前にしてときめいている追っかけのそれとよく似ていた。だからといって二人が付き合っていると決めつけることに、奥園はどこか抵抗があった。その場の勢いなどに惑わされずにはっきりした事実や考えに基づいて結論を出すのが彼のやり方だからである。
二人乗りをしていた男女の正体は奥園や初芝と同じ部活動に所属している礒部由紀雄と倉持恭子で、二人とも部を代表する美男美女として他の部でも有名だった。しかしそんな二人が付き合うような関係になっているという噂は部の内外でも話題になったことは一度もなかった。だから余計に目の前の光景が彼らには信じ難いものとして映ってしょうがなかったのである。そんな彼らをよそに二人は相変わらず楽しそうに話し続けている。会話の主導権は恭子が握っているようで、由紀雄は軽く相槌を打つか時折笑顔を見せる以外は黙って彼女の話に耳を傾けていた。しかし話している間、二人の距離は実に均等に離れていて、どこか遠慮がちだった。恋人同士にしてはどこか不自然な間隔の取り方に見えた。
すると、上り列車の到着を告げるアナウンスが改札口に響き渡った。それと同時にそれまで絶え間なく話し続けていた二人はパッと離れ、恭子は改札側に、由紀雄は道路側に移動した。改札を抜けてからもまだ名残惜しいのか、恭子は実に寂しそうに由紀雄を見つめ弱々しく左手を振り、寂しさを断ち切るように急ぎ足で電車に乗り込んだ。そしてそれを笑顔で見送った由紀雄は同じように急いで自転車に跨り、一気に加速させた。完全に二人の姿が見えなくなるのを確認してから、奥園と初芝は雑居ビルの陰から抜け出し、何もなかったように改札を抜け、ホームのベンチにぐったり腰掛けた。しばらくはお互いに黙っていたが、意味のない沈黙に耐えかねて奥園が切り出した。
「やっぱり付き合ってんのかな?」
「分からん。でもあの二人が普通の関係やないってことは確かやと思う。まぁいずれ真実が分かるやろう」
「それっていつになるんやろうなぁ?」
奥園は遠くを見上げて力なくため息をついた。夜空の星の一つ一つがとても鮮やかに見えるので、彼はしばらくそのままの状態でいた。そうしていると何故か気が楽になった。もう少しで眠ってしまうところで電車が轟音と共に姿を現し、彼は我に返って初芝に続いて慌しく乗り込んだ。
結局その日のうちに由紀雄と恭子の交際が本当か否かの結論を奥園は出せなかった。付き合っているような素振りではあったが、どこか他人行儀な感じが否めなかったことが彼には引っかかった。恋人同士なら手を繋いだり二の腕を掴んだり肩に手をやったり、何かしらの肌の接触があってもおかしくないのに二人にはそれが全くなかった。付き合って日が経ってないからかもしれないが、それにしても距離があり過ぎる気がして腑に落ちなかった。奥園には彼女を持った経験は一度もない。しかし彼女のいる友人の話や恋愛に関する書物などで男女交際がどんなものかということは知っている。それ故余計にあの光景が不自然なものに思えてならなかった。付き合っているなら何故あんなに他人行儀なのか、付き合ってないのだったら何故あんな名残惜しそうな離れ方をしたのか、奥園は何度もそれらしい答えを考えてみたがこれといった答えには行き当たらなかった。「愛には色々な形がある」といういかにも模範的な解釈は何の役にも立たなかったし、そんな一言で片付けるのは彼のポリシーにそぐわなかった。
(こうなったら、どんなことがあっても真実を突き止めてみせよう。常識の範囲内でやったら許されるはずやし、もしかしたらみんなも知りたがっていることかもしれへん。どこまで出来るか分からんけど、やれるだけのことはやってみよう)
乗客が自分独りとなった私鉄の車内で、奥園は人知れず固く決意して、自然に拳を握っていた。
全ては、ここから始まった。
第一章 熱愛発覚
関畿大学文化会総合芸術部所属の二回生六人が、部員の一人である今泉豊の下宿先のアパートで小規模の宴会を開いていた。この日までそれぞれ異なる環境で張り詰めた毎日を送っていたこともあって、個々に持ち寄った酒や肴の類が幾らあっても足りないぐらい、皆一心不乱に食べて飲んで語り合って、前期日程が終了した解放感を満喫していた。アルコールの勢いに任せてひたすら喋り続ける者、たった一本のチューハイをチビチビ飲んで羽目を外さないように抑えている者、そして酔い潰れてぐったり寝入ってしまう者。アパートの一室には様々な顔が所狭しと賑わいを見せていた。
宴も酣となった頃、寝入ってしまった者を除いて数名がなおも酒を片手に取り留めのない話題で盛り上がっていた。その話題も尽き果てそうになった時、真っ赤な顔をした細見功俊が突然切り出した。
「そういやぁ、別の部活の友達から聞いてんけど、うちんとこの礒部と倉持が付き合ってるらしいねんけど、これってホンマなん?」
そこにはいない礒部由紀雄と倉持恭子の名前が同時に登場した瞬間、誰もが「晴天の霹靂」を実感した。疑り深い目で細見を見つめる者、襲ってきた睡魔に一瞬で打ち克ってしまった者、そして驚愕のあまり言葉が出てこなかった者。たった一言で幾つもの驚きの表情が飛び出し、これには細見自身も驚きの表情を隠せなかった。騒がしかった宴会は静かなひと時を迎えた。
「……ってことはみんなも知らんかったんか?」
「当たり前やん。あいつらとはよう顔合わすけど、そんな感じ全然なかったで、なぁ?」
今泉が先陣を切って沈黙を破り、他の部員たちに同意を求めた。他の者たちは黙って頷いた。
「ところで、そのお前の友達は何て言ってたん?」
「いやぁ、何かなぁ、友達が帰る時に二人が一緒に帰るとこを見たんやて。で、そいつは二人のこと知ってたから顔も覚えてて、あれは確かに礒部と倉持で間違いなかったって言ってた」
「一緒に帰ったぐらいで付き合ってるって、そらおかしいわぁ。そんなんゆうたら俺かて弓削と付き合うてることになるやん?」
今泉は隣にいた弓削加奈子を引き合いに出して、細見の発言を否定した。当の本人も笑いながら「それはおかしいなぁ」と今泉の意見に賛同した。実際彼女には本命の彼氏がいる。
「それに恭子ちゃん、前に好きな人いるのかって話になった時に、『アタシはたぶん誰かを好きになったりはせえへんと思う』って言っとってん。その理由は『特に男の子と仲良くなっても、友達で充分やって思っちゃうから好きって思うことはないかなぁ』ってことやったから、だから急に誰かを好きになったり付き合ったりはせえへんのんとちゃうかなぁ?」
弓削はさらに言い足した。いつも男女の分け隔てをせず親しく接する恭子のイメージから、男たちは彼女は誰よりも早く恋人を見つけると思っていただけに予想外の事実を知って少し面食らった。
「そうやなぁ。それに礒部にしたってあんまり恋愛に興味があるような感じやないしなぁ。じゃああれはガセネタやったんかなぁ?」
細見は自分の発言に対してどんどん自身を無くしていた。自分も直接見たわけではないのであまり強く出ることができなかった。勢いよく灯った話題の明かりは、一気に風前の灯と化そうとしていた。
「ちょっとえぇかな?」
突然、それまで黙って今泉たちのやりとりを聞いていた奥園竜一郎が割って入ってきた。何か言いたいというのが顔を見ればすぐに分かる奥園が身を乗り出したことで、今泉たちは何か妙な期待を持ち始めた。また彼自身も細見が二人の話題を出してきた時点で、以前帰宅の途に就いている最中に見かけた二人の様子を思い出していたのである。そしてその時から自分の中に湧き上がっていた疑問を解決させる絶好の機会だと意気込んで発言の機会を窺っていたのである。細見の話とは違って、彼の場合はその目で見たことの若干の強みがあった。
「奥園、お前何か知ってるんか?」
今泉が奥園の方を向いて尋ねた。
「あれは一週間前なんやけど……」
奥園は満を持して自分とその時一緒にいた初芝秀郎が目撃した私鉄の駅での一部始終を、できる限り詳細に話した。より分かりやすく説明するために、彼は時々身振り手振りを大袈裟に交えたりもした。その様はまさしく熱演と言えるものだった。今泉たちはそれを事実か否かは別にして滑稽な一人芝居として楽しんで見ていた。
「つまりお前の言いたいことをまとめると、付き合ってるにしては他人行儀過ぎて、ただの部員同士にしては親密過ぎるってことやな?」
細見は話の要点を簡潔にまとめ、奥園は息を切らしてうまく返事ができなかったが軽く頷いた。
「俺にはその矛盾がどうも解決できへんかってなぁ。はっちゃんはその時の倉持さんの目は間違いなく恋人を見つめる目やったって言ってるんやけど、それはちょっと分からんかったなぁ。はっちゃんが説明すればみんなにも分かってもらえると思うんやけど……」
奥園は後ろの方で抱き枕を抱えて完全に寝入ってしまった初芝を指して言った。時々口がモゴモゴ動いて、聞き取れない寝言のような吐息が漏れていた。
「けど、それって奥園君たちの見たまんまに意見やろ? 見たまんまやったら何とでも言えるけど、事実って決め付けてしまうんはどうかなぁ。それに奥園君の抱えてる疑問が解決してないうちからそんなん言われてもアタシらもどう返したらええか困っちゃうし」
弓削は気の毒そうに奥園を見つめて言った。主観一辺倒の意見では事実の見極めはしにくい。それがネックになってしまい結局奥園の意見は細見の二の舞となり、依然として真実は遠くに感じられた。
「あのさぁ、これは本人から聞いたんやけど……」
しばしの沈黙に誰もが重苦しさを感じ始めた時、意外なところからそれを破る声が聞かれた。それまで睡魔と闘っていた小野沢麻耶が何かを思い出したように口を開いた。皆の下向きだった視線が一気に彼女一点に注がれ、それに半ば困惑しながら彼女は話し始めた。
「あれは春先のことやったと思うけど、前に恭子ちゃんと一緒に帰ってた時に突然『なぁ麻耶ちゃん、アタシもしかしたら今とっても幸せかもしれへんねん』って言われてん。何でって聞いたら『今はちょっと教えられへんけどまた時期が来たら教えるわぁ』ってはぐらかされてもうてん。結局その日は分からんかったんやけど、今こうしてみんなの話聞いてたらあの日のことは礒部君のことやったんかなぁって思えたりしてん。何か関係ありそうじゃない?」
確かに言われてみればそんな気がしないでもなかった。しかしやはり真実には遠かった。結びつけることは容易だが、その根拠がどこにもない。それでは何の意味もない。誰も彼もそれが分かったのか、難しい表情でお互いに見合った。
「そら、関係はあるかも知れへんけど、全く別の可能性もあるから一概にそうやとは言えへんなぁ。それか何かあったわけやなくて、倉持がただ適当に言っただけかもしれへんし」
今泉の反論を聞くと小野沢は伏目がちになって手元の空き缶を弄んだ。その様子から決定打を放てなかった彼女の残念さが透けて見えた。結局その後誰一人として真実に近づける発言をする者は現れなかった。そのうち思いも寄らない討論会に疲れ果てたこともあって宴会もお開きとなり、下宿生の弓削と小野沢はそれぞれの下宿先に、実家通いの奥園と細見、そして先に寝入ってしまった初芝はそのまま今泉の部屋に泊まることになった。
初芝と細見が眠りに就いている横で、まだ眠れずにいた今泉と奥園が酒と肴の残りを片付けていた。家主の今泉は部屋の掃除を明日に持ち込みたくなかったため、一方奥園は話題の真実に辿り着けなかった悔しさのためと、お互い別々の事情でなかなか寝付けずにいた。奥園は掃除の手伝いをしながら今泉に尋ねた。
「今泉君は二人のことどう思ってる?」
「せやなぁ、どっちかはっきりしてほしいなぁ」
「それは別にあの二人は何も悪くないやん?」
「そんなん言って、お前も本当のことが知りたいんやろ?」
「そら、もちろん」
「せやろ? せやからこそ隠さんと話したらええねん。どうせいつかはみんなにばれるんやから」
「まぁなぁ、でも二人ともそういうプライベートなこと話してくれそうになくない?」
「そうでもないで。彼女とか彼氏できた奴って大概隠さんとみんなに自分から喋りたがるもんらしいで。嬉しいから言いたくなるんやろう」
奥園は由紀雄か恭子がそうなってくれることを願った。危険を冒さずに真実を知ることが一番望ましいからである。そして自分以外にも二人の関係を気にする者が増えたことで、自分は一人ではないという安心感が生まれ彼は心強さを感じていた。
(明けない夜はない、待ってたら必ず真実っていう夜明けが訪れるんや。それまで何としても喰らいついていこう)
奥園は誰にも悟られぬように改めて決意を固めた。そしてそれを萎えさせないように掃除の手伝いにより一層力を入れた。理由を知らない今泉は「何やねん」と訝しそうに独り言を呟いた。
* * *
前期日程終了から一週間が経ったある日、夏休みの旅行の計画を立てるために今泉のアパートに奥園と初芝、そしてもう一人津村夏樹が集まっていた。津村は何に置いても一番出来が良く人望の厚い頼れる存在で、彼が呼ばれたのは候補地に迷った時には彼に即決してもらおうという魂胆が他の者たちにあったからである。それが当たり彼の一声で行き先や日数、必要な予算等が数分のうちに決定した。決まってしまうと他にやることはなくなり、仕方がないので彼らは適当に話題を取り繕って徒然なる時間を過ごした。そのうち話題は件の由紀雄と恭子の交際は真実か否かに発展した。
「結局見たまんま聞いたまんまのことしか出てけえへんかったから、何も分からんまんまやねん。それで、津村はどう思う?」
今泉が話を振ると津村は特に驚いた様子もなく、平然としていた。その眼差しから初芝は何かを察知し、
「もしかして津村、本当のこと知ってんの?」
それに対して津村は少々人を嘲ったような笑みを浮かべて、
「知ってるも何も、俺はあいつらを引っ付けた張本人やもん。お前らが話題に出す前から全部知ってるいうねん」
皆が心待ちにしていた真実は意外に呆気なく公表された。更に津村はいかにも話したそうに続ける。
「お前らが知るたがってることは大体分かる。何であいつらが付き合い始めたかってことと、どこまでの関係になってんのかってことやろ? とりあえず告ったんは倉持からで、初めて会うた時から好きになったらしい。で、四月の中旬に俺は倉持から『アタシ礒部君に告ろうと思うねんけど、どうしたらええかな?』って相談受けたから、ひとまずあいつらが一緒に遊ぶ機会を作ってやってん。いきなり告られたら礒部はそういうのに慣れてないから警戒するやろうって思って。そんでゴールデンウィーク中にあいつらと俺と塙ちゃんの四人で京都の名所を回ったんや、俺が車出して。大変やったで、二人がたくさん話せるようにもっていかなあかんかったし、免許持ってんのは俺だけやったからずっと運転せなあかんかったし。何で俺こんな必死なんやろうって何回思ったことか……。
それから一週間後ぐらいから二人は付き合い始めて、今でもう三ヶ月近くやけどあんまりそんな深い関係になってないなぁ。普通は付き合ったらすぐ手は繋ぐのに、どうも二人はまだ手も繋いだこともないねん。それに未だにお互いに『礒部君』と『倉持さん』って堅苦しい呼び合いしてるし、それで何が楽しいんかははっきり言って俺にも分からへん。まあでも、お互いに初めての彼氏と彼女やから手探り状態なんやろうな」
津村はそこまで一気に話すと、持ってきていたペットボトルの緑茶を半分以上飲み干して一息ついた。他の三人は真相を一気に知った微かな驚きと興奮で心をざわつかせていた。それは大量のゴミの山から神々しい光を放つ金塊を発見した時の感情によく似ていた。そして人目惚れをきっかけに始まった恋愛は、その金塊と同じぐらいの値打ちがあるようにも思えた。ドロドロしたものや早熟したものが彼らの身近な恋愛だっただけに余計にそう思えたのである。
「じゃあ、二人が恋人同士に見えへんかったんは、ただ単にお互いに照れみたいなのがあったからなんかなぁ?」
二人の交際の不自然さに一番疑問を感じていた奥園が独り言のように呟いた。
「それだけやないと思う。さっきも言うたけど、二人とも今まで誰とも付き合うたことがないから、まだ異性に対して警戒心みたいなもの持ってんのとちゃうか? まぁそれにしてもあの進展のなさ過ぎもどうかと思うわぁ。見ててじれったくなる」
津村は最後の方の語気を強めて言った。何かに苛立っているかのような口調だった。やがて津村は「もうすぐバイトやから」と急いでアパートを出て行った。残った三人は置いてきぼりをくったような寂しい感じに襲われていた。
「なあ、付き合って三ヶ月経ってもほとんど進展ないのって変なん?」
奥園は不思議そうな表情を浮かべた。
「人によってはもうヤること全部ヤッてる奴らもおるし、初歩の初歩しか進んでない奴らもおる。まあ平均的に見ても三ヶ月中には何かしらのことはヤってるんちゃうんかなぁ?」
初芝は奥園に分かりやすいように言った。奥園はようやく納得した。加えて初芝は、
「さっき津村がお互いに警戒心があるからまるで進展がないって言ってたけど、それは違うんやないかなぁ? だってホンマに警戒心持ってたら付き合わんやろう。これは俺の予想やけど、たぶん二人はもうヤることはヤってて、誰にもそれを言ってないと思うねん」
奥園はそう言われるとその通りなのかもしれないと思ったが、今度は今泉が不思議そうな表情で初芝に尋ねた。
「じゃあ、ヤることヤった後でも距離を取って話したり、他人行儀になったりするもんなん?」
「そら、体の繋がりがあっても心の繋がりがまだやって場合があるから別にそこまで不思議に思う必要はないと思うで」
「そんなもんか。しかもそんなデリケートなことを、プライベートを大事にする礒部が言うはずないわなぁ」
「たぶん礒部は口止めしたんやろうけど倉持は言いたかったんやろうな、匂わすようなことは言ってたぐらいやから」
「秘密を隠すタイプと公表するタイプ、全く対称的やのに二人は気が合ったんかなぁ?」
「対称的やからこそ合うんちゃうかなぁ? なんならこれで調べてみるか、二人の相性を」
今泉は本棚から一冊の文庫本を引っ張り出した。表紙には可愛らしい動物のイラストが描かれていて、本に巻き付いていた赤い帯には「これさえあれば人間関係は問題なし!?」と大文字で宣伝文句が踊っていた。人目で流行の『動物占い』の本であることが奥園にも初芝にも分かった。
「まさにお誂え向きの本やね。ところで二人の生年月日誰か分かる?」
「あぁ、知ってるで。確か礒部は一九八五年の四月十八日で、倉持は一九八五年の十月八日やで」
必要な情報が揃うと、今泉は[動物キャラの見つけ方]のページに記載されている指示通りに二人の生年月日を辿り、当てはまる動物を発見した。その結果由紀雄は狼、恭子はひつじと出た。
「それってどんな特徴があるの?」
「一言で言ったら狼は『マイペースな変わり者』で、ひつじは『面倒見のいい寂しがり屋』って書いてあるで」
「なるほど、まさにあの二人にぴったりやなぁ。礒部は単独行動よくするし、倉持さんは団体行動好きやし」
「ところで相性はどうなん?」
「そうやな、ちょっと待ってなぁ、あっ、ええこと書いてある」
今泉が適当にページをパラパラ捲ると、[狼攻略法 恋愛編]という項目に行き着いた。そこには、
ガンコに自分のわがままを通そうとするひつじの彼女に、狼の彼はうんざり顔。時には甘えたい地球の狼と、女性なんだから自分が甘えて当然、と優しさを強要する満月のひつじはすれ違いばかり。満月のほうが強い力関係は、ひつじを際限なくわがままにします。
心が通い合い、親密になってしまえば、狼は恋人をとても大切にするタイプです。極端な身内びいきの性質が出て、かゆいところに手が届くような心配りを見せる人なのです。
星の力関係ではスムーズに進みにくい相性だとしても、心をつかむまで控えめに出ることが、狼の男性攻略する決め手。最初は、狼のペースに上手にノッてあげることです(注一)。
という風に書かれていた。
「相性が良いのか悪いのかよく分からんなぁ」
今泉は曖昧な笑みを浮かべた。
「とりあえず、大器晩成型の恋愛ってことなんやろうな、きっと。そしたらこれから先二人には一波乱も二波乱もあるんやろうなぁ。相性が良いって言ったってそれは条件付きなわけやし、それ以外は基本的にすれ違いが多いんやから、一筋縄ではいかへんで、これは。うまくいけばずっと続くし、だめやったら別れてしまうし。
まあどっちにしても、これからのあいつらからは目が離せへんな。結構組み合わせの妙もありそうやし」
初芝は面白がった言い方で初芝は自分なりの解釈を口にして、それから二人の将来を予想した。ワイドショーで芸能人の熱愛を取り上げた時に必ず登場する芸能レポーターのように、強引だが妙に説得力のある話し方をするのが初芝の持ち味だった。これには今泉も奥園も納得させられた。そこで話題は打ち切られ、奥園と初芝は家路に就く仕度を始めた。
日差しが目を勢いよく射す夕暮れの下、奥園と初芝はゆっくり大学通りを歩きながら、恋愛について語り合っていた。初芝はこれまでの多彩な恋愛経験に基づく持論を露骨な表現を交えて披露し、奥園は腹を抱えて笑いながらそれを聴講していた。
「俺が思うにな、『本能』と『理屈』がなかったらまともな恋愛なんてできへんと思うねん。何故かと言うとまず女が欲しいっていう『本能』が働かへんかったら恋愛の第一歩は踏み出せへんし、その女やないとアカンっていう尤もらしい『理屈』がなかったら自分の言動に自信が持てなくなるやろ? 要するに『本能』は恋愛という扉を開くための鍵で、『理屈』は正しい道を進むための地図とでも言うたらええんかな? まあ誰もそんなこと意識して恋愛なんかしてへんと思うけど、ずっとうまくいってるカップルは両方が正しく兼ね備わってるからうまくいくようになってると思うな」
「じゃあ礒部と倉持さんの場合も同じことが言えるんかなぁ?」
「それは分からん、何せ本能も理屈もあの二人に関しては不明やからなぁ。そんなんが分かってきたら、きっと奥さんの恋愛に関する固定観念はなくなると思うで」
奥園はそうかもしれないと思った。真実を知ってもなお晴れない心のモヤモヤの原因がそれのような気がしたので、彼はホッとした。そしてそれが晴れる日がそう遠くないような気さえしてきた。
(これからは無理に自分から迫らなくても、新しい真実には近づけるだろう。そしたら俺の疑問も全部無くなってしまうはずや)
奥園は少しだけ心が軽くなったような気分になった。その横では、初芝がまだまだ持論を展開していた。一向に止む気配のない男同士の語り合いを、夕焼け空は黙って受け止めていた。
第二章 非常事態
大河の流れが一望できる旅館の一室で、津村夏樹を中心に興味津々の学生たちの輪が広がっていた。話題は近頃交際していることが発覚した礒部由紀雄と倉持恭子についてだった。津村は二人のキューピッド役を務めたことをきっかけに、由紀雄と恭子からその後の経過を聞くことができるだけでなく、二人の交際に助言を呈することもできた。そうして得てきた情報を彼は遠慮なく話し、彼らの好奇心を十二分に刺激し飽きさせることはなかった。
津村の話を簡単にまとめると、
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初めて話した時に由紀雄が他の男子と違って自分の事をあまり話そうとしなかったので恭子は興味を持ち、その後も彼と接していくうちにもっと彼について知りたいと思う気持ちが日増しに強くなり、それが告白する理由になった。
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初めてのデートで恭子は朝早くから弁当作りに励み、悪戦苦闘の末に由紀雄の好きな鳥料理を重箱三段分作った。
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由紀雄と恭子が手を繋がないのは照れや警戒心ではなく、恭子の握力が女子の平均以上であることを知られるのが嫌だから。
これらの事実は全て恭子から聞いたもので、由紀雄から聞いた事実は、一線を越えていないどころかハグやキスなどの性的スキンシップさえ経験していないこと、その理由は「まだそういうことをする段階にはなっていない」からであることの二つだけだった。最後に津村は、
「俺に言わせればまだまだ青いな、あいつらは。今時の中学生よりも進んでへん。正直聞いててじれったくなんねんなぁ、あいつら一体どうしたいんやろうか? 早くヤることヤってしまえって言いたくなるわぁ」
そう言って自分の話を締めくくった。
「でも礒部君偉いと思うな。付き合っても簡単に手を出さへんのは、ある意味男らしいやん? それに恭子ちゃんかてそういう安心感があるから礒部君と付き合ってるやないかなぁ? 何かプラトニックな感じでええなぁ」
春先に恭子から幸せを打ち明けられた小野沢麻耶が由紀雄の行動を自分なりに解釈して賛同した。
「どこが男らしいねん? ようヤれへんだけや。礒部はただの晩熟やし、倉持は変に潔癖なだけや」
津村は乱暴な口調で小野沢に意見を否定した。これに小野沢はすぐに食ってかかった。
「その言い方気に食わへんなぁ。何でそうやって付き合うこととエッチなことを一つにしようとするの? そんなのっておかしいんとちゃうの?」
「それは言えるなぁ。ってか男の人ってみんな付き合ったらそういうことしたいって思うもんなん?」
小野沢に弓削加奈子が援護射撃を加えた。この質問は経験の有無は関係なく津村以外の男たちの心にも強烈に響いた。誰も答えられないで黙っていると、
「じゃあお前らは彼氏に求められたら断るんか!? 断れへんやろ!? そんなんしたら引いて逃げてしまうやろうからな!」
津村は更に乱暴な口調で言い返した。気迫に圧倒されたのかそれとも図星だったのか、小野沢も弓削も反論できなかった。
「口ではどんな綺麗事言ってもな、結局は汚いことの一つや二つやっていかんと今の世の中やっていけへんねや!? それやのに綺麗事ばかり並べて偉そうなこと言いやがって、何がプラトニックや! ただの根性なしやんけ!」
あまりの津村の激高ぶりに場の空気は完全に台無しになってしまった。それに気が付くと、津村はハッと我に返り居た堪れなくなって無言で踵を返した。しばらく重苦しい静寂が部屋中に漂っていたが、
「何で津村、あんなキレたんやろ?」
「普段はあんなことないのに……」という声がポツリポツリと出始めた。
「これで何かあったことは間違いないな」
初芝秀郎はその場に相応しくない笑顔で言った。その物怖じしない精神力に誰もが唖然とした。
「前から気になってたことがあったんやけど、津村が二人のことを初めて俺たちに話した時もあいつ何か怒ってたような感じやったし、もしかしたらあいつは二人が付き合ってること良く思ってないんとちゃうかなぁ?」
と、奥園竜一郎が自分の意見を簡単に述べた。
「それやと、こう考えられるなぁ。津村は倉持のことが好きやったけど、そうとも知らない倉持が礒部を好きになってそのことで津村に相談してきた。それでお人好しのあいつのことやから自分の気持ちを無理矢理抑えて相談に乗って、ほんで二人のキューピッド役になった。表向きは気にしてない振りしてるけど内心は横取りされた感じで胸糞悪い、だから今日みんなにヤイヤイ言われてるうちに腹が立ってキレた。まあ、こんな感じかな?」
初芝は奥園の意見からとても飛躍した予想を導き出した。やはり彼の話しぶりには妙に説得力があるらしく、何の根拠もない想像の産物に対して異を唱える者は現れなかった。
「ところで、やっぱり男の人って付き合ったらエッチなことしたいって思うもんなん?」
小野沢は涙目になって言った。この状況でこの手の質問に答えられるのは一人しかいなかった。初芝は小野沢を優しく見つめ、
「ほぼ二人に一人の割合でそれは言える。けどな、ただ本能剥き出しでヤりたいって思ってるわけやないねん。エッチは利害関係が大事やからお互いが求めてる時にヤらないと成立せえへんねん。一方的ヤったら本物の快楽は得られへんのよ。小野沢かて彼氏に求められても気分が乗らへん時は『ダメ』って言うやろ?
それやったらそれでええねん。さっき津村は綺麗事どうのこうのって言ってたけど、それは違うねん。『エッチはダメ』って言うのは綺麗事云々やなしに心の問題やから誰かて言うよ、逆の場合かてあるんやから。つまり相手が求めてなかったらこっちかて無理強いはせえへんよ、それがホンマの男やて。どう、納得できた?」
初芝の解説に小野沢は納得した表情で「うん」答えた。更に初芝は、机に置いてあったメモ用紙に何かを書き始めた。
砂浜に寝そべって
恋を語りたい
気が合う人といつまでも
たべたいものをたべて
聞きたい音をきいて
見たいものをみて
愛が生まれて
ぼくがよろこんで
その人がよろこんで
そうなりたい(注二)
「何これ? はっちゃんが考えたの?」
「ちゃうよ。これは山田かまちっていう人が作った詩や。家のカレンダーに載っててん。おそらく礒部と倉持の恋愛ってこういうもんやないんかなって思ってんな。エッチのいらへん、素朴な恋愛。最近じゃこんなカップル居らんやろうと思ってたけど、こんな身近に居ったんやなぁ」
初芝は感心したように言った。他の者たちも二人の姿を思い浮かべて「そうかもしれない」と思った。このことをきっかけに話題は再び由紀雄と恭子に戻った。津村の激高を挟んでも彼らの由紀雄と恭子に対しての好奇心は衰えてはいなかった。
「握力を気にして手を繋がないってところが恭子ちゃんらしいなぁ」
「それを気にしない礒部も変わってると言えば変わってるよなぁ」
「でもそれで二人がうまくいってるんやったら、別にそれでええんやないの? 『動物占い』でも一応は相性が良いって出てたんやし」
各自の感想があれこれ飛び出してくる中、
「それにしても、どっちかっていうと体育系な恭子ちゃんと文化系の礒部君が付き合うっていうのは何か不思議やね」
眠たそうに体を左右に揺すっている塙優香がポツリと言った。彼女は由紀雄と恭子が親しくなるきっかけとなった京都旅行に参加していた一人である。彼らは恭子が高校時代バレーボール部に所属していたこと、そして由紀雄は幼い頃からピアノに慣れ親しんでいたことを思い出した。全く違う世界で育った者同士が何かの縁に導かれて秘密裏に交際を始めるという展開が、どこか小説の中の出来事みたいに感じられた。
「ところで、塙ちゃんはあいつらと京都行った時、礒部と倉持のこと全然気付かんかったの?」
今泉は塙に尋ねた。
「全然。ってかアタシあの時ほとんど寝てたし」
塙は素っ気ない返事をしてから大きな欠伸をした。今にも寝てしまいそうだった。
「でも、アタシ恭子ちゃんが付き合うのは津村君やと思ってたんよ。だって恭子ちゃんと礒部君が喋ってるところ見たことなかったし」
「アタシも最初はそう思ってた。よく二人で遊んだりしてるって言ってたもんね、恭子ちゃんも津村君も」
弓削がまたも相手の意見に乗っかった。
「そういやあ、礒部のことで倉持が真っ先に相談したのって、自分らやなくて津村やってんなぁ」
「アタシら何の話も聞いてなかったしなぁ。たぶん礒部君と津村君は学部が一緒やから色々聞きやすかったんちゃうかなぁ? 津村君って聞き上手やし」
「俺の言った通りや。やっぱりあの二人と津村は切り離せへん何かがあるんやで。余計に今後が気になるなぁ」
初芝の軽快な話しぶりは留まることを知らなかった。津村が作り出した重い雰囲気は完全に払拭されていた。どんなことがあっても物怖じしない精神力と皆の心を和ませ楽しませる巧みな話術を兼ね合わせた初芝は、それがあったからこそ中途入部でもすぐに皆と溶け込めてのだなと小野沢は思った。そしてさりげなく自分を助けてくれた初芝に、小野沢は正面向いて言うのは照れ臭かったので心の中で「ありがとう」と言った。
その頃津村は、隣の部屋で虚ろな目で朧な月夜を眺めながら携帯電話で親友の山崎寛造と話していた。山崎も総合美術部の二回生で、津村とは違う学部だが入部当初からすぐに親しくなった。山崎は夏休みの旅行には家業(米屋)を手伝わなければならないために参加できなかった。
「俺未だに自分がウザいわぁ。何であんな露骨にキレてしまったんやろ? 絶対どうかしてたって」
津村は自分の醜態を思い出すだけで腹が立った。腹を立てる相手は他人ではなく自分だった。
「とりあえずみんなにはもちろんやけど、キツいこと言った小野沢と弓削にはちゃんと謝らんとな。お前は普段はクールやけど、キレたら手に負えへん時あるから気を付けんと」
「おう、分かった」
津村はあまり人の言うことを聞かない男であるが、何が原因なのかは定かではないが、山崎の言葉は比較的素直に聞き入れていた。
「お前、自分の本心に嘘付いてないか? それやったらお前のためにならんぞ。何かちゃんとした決着の付け方があるんちゃうか?」
「そうなんかな? けど今更どないしたらええねん?」
「それはお前が自分で探さへんと。俺が言ったってその通りにしたくないやろ?」
「そうやな、もう少し考えてみるわぁ」
電話はそこで切られた。津村は心の棘が萎えてはいるがまだ残っていることに苛立った。山崎の言う「ちゃんとした決着」が何なのか、目の前の月夜の如く朧だった。
(俺がやるべきことは、綺麗事では済まへんよな)
そんなことを考えてしまう自分に、津村は幽かな恐怖心を覚えた。そして布団を自分に思い切り被せて無理矢理眠ろうとしたが、やはり眠ることができなかった。それでも津村はまるで溺れている人間みたいに布団の上でもがき苦しんでいた。
* * *
夏休みが終わって肌寒さや物寂しさを感じ始める秋を迎えると、なかなか進展しないながらも自分たちのペースを守って交際を続けていくのだろうと皆が予想していた由紀雄と恭子の関係が急に暗転した。恭子の口から数々の愚痴が聞かれるようになり、それは由紀雄にも同じことが言えた。付き合ううちに今まで見えなかったお互いの悪い一面が見えるようになって嫌だというのが二人に共通の意見だった。恭子が指摘する由紀雄の悪い一面は、
l
細かい気配りが全くない。
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時々音信不通になるから何をしているのか分からない。
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時間や約束にルーズ。
恭子の愚痴を間近で聞いていた小野沢と弓削は「恭子ちゃんには悪いけど、何か礒部君らしい」と同じ率直な感想を述べた。恭子もそれを認めつつも「彼女としてそれを許すことはできない」と真剣な眼差しで否定した。そして「少し前にそれを直すように頼んだことから喧嘩になった」と恭子は深い溜息を吐いた。弓削はそんな恭子が心から気の毒に思えて、
「大丈夫やって。付き合ってたらそんなのは幾らでも出てくるし、いちいち気にしてたらきりがないで。好きって気持ちが強かったらそんなことも気にならなくなるって」
と、希望的観測を含めた慰めの言葉をかけた。小野沢も、
「もしそれに耐えられへんかったら、ちょっと距離置いてみるとかしてうまくやっていけるようにしていったらええと思うで」
こちらは現実的な助言を施した。二人の言葉に恭子は浮かない表情で「ありがとう」と答えたので、二人は恋愛に慣れていない恭子が心配になった。
一方由紀雄が指摘した恭子の悪い一面は、
l
自分の願望や欲求をやたら押し付けてくる
l
人(由紀雄)の意見を聞き入れようとしない
l
干渉し過ぎ
どれも恭子らしいものだった。少なくとも津村にはそう思えた。しかしそれを意識してしまうと、津村は目の前で愚痴をこぼしながら落ち着きなくカツ丼とかけそばを交互に食べる由紀雄が憎らしく思えて仕方がなかった。
「そんなこと言うけどお前、それを承知で付き合ったんとちゃうんか?」
津村は低く唸るような声で言った。彼としては威嚇したつもりだったが、由紀雄は表情も食べる速度も変えず「まあ、そうやけど」と答え、それが津村の癪に障った。彼の心の中で憎しみが具体化するのに多くの時間はかからなかった。しかし、
(ふざけんな、お前! 恋愛なんていつも自分の都合のええようにはいかんねん! それになぁ、どんだけ好きやって思ってもそれが絶対報われへん奴のこと思ったら、彼女の文句が言えるお前なんてまだええ方や! それも分からんと文句ばっか言いやがって! 自己中心も大概にせえや!)
津村は心の中では食堂中に響き渡るぐらいの怒鳴り声を挙げていたが、実際に口には出せずただ由紀雄を憎らしく睨みつけるしかできなかった。夏休みの旅行中に自分の怒りで場の雰囲気を白けさせた反省を生かしただけでなく、以前から津村は何故か由紀雄に対しては思うように怒れなかったのである。原因が分からないだけに、津村はそれが余計に腹立たしかった。結局何も言えず、心の中の棘がメリメリと音を立て鋭く尖り始めるのを津村は実感した。そして自分がするべきことが何かをはっきりと自覚した。
* * *
師走の真っ只中、部活動の一年の締め括り行事である部室の大掃除を行うため、総合芸術部の二回生たちは朝早くに集合していた。来期の執行役員の一員となった小野沢が点呼を取っていると、新代表に任命され大掃除の指揮を執ることになっていた由紀雄の姿が見えないことに気付いた。「また遅刻か」と小野沢は呆れて携帯電話を手に取った。しかし何度かけても全く繋がらない。眠気と寒さと何もできないことへの苛立ちで二回生たちの表情が引きつる。集合時間から一時間が経過し、皆の忍耐も限界に達しようとしたその時、由紀雄は何食わぬ顔で急ぐでもなく現れた。「自転車のタイヤがパンクしてその修理に時間がかかってしまってん」と、遅れたことを由紀雄は話し、携帯電話が繋がらなかったのは「天気が悪くて電波が届かんかったんちゃう?」と、説明した。それに対して他の者たちは特に苦言を呈したりはしなかった。言うだけ無駄な気がしたからである。しかし、恭子だけがしつこく食い下がった。「何でそんな言い訳すんの? 何でちゃんとみんなに謝れへんの?」と、恭子は時に語気を荒げて由紀雄に詰め寄る。止まらない小言に由紀雄が露骨にうんざりした表情を浮かべる。同じことが何度も繰り返され、終いに恭子は由紀雄の腕を乱暴に掴むと部室裏の物置に姿を消した。他の者たちは何も言えず二人を見送るしかなく、これ以上待ちたくなかったので二人抜きで掃除を始めた。その間二人の聞き取りにくい罵り合いが何度も物置から響き渡り、その都度掃除の手は自然に止まった。そして部室の半分の掃除が終了した頃に、先に由紀雄が明らかに不機嫌な表情を浮かべ何も言わずに机や椅子の運搬に加わり、数分遅れて恭子が目を充血させてこちらも無言でビニールシートの清掃に加わった。二人の間に何があったのか、言葉はなくても二人の姿が物語っていた。彼らは掃除に集中することで二人への関心を抑えていた。
大掃除が終了した頃には太陽はすっかり沈んでしまい、風も急激に強く吹き荒れた。由紀雄と恭子、それに津村の三人を除く二回生たちは、今泉の発案で大学の近所にある馴染みの居酒屋の座敷で一日の労を労っていた。しばらくは掃除中の出来事を話のネタにして楽しんでいたがそれだけでは話が続かなくなり、誰からともなく由紀雄と恭子の行く末がどうなるかを話し始めた。
「それにしても、今日の恭子ちゃんのキレっぷりはたまげたねえ。何であんなに礒部君に突っかかったんやろう?」
飲み始めて間もなく顔を赤くさせて畦地晴美が言った。彼女は半年間海外に留学していてこの日久々に部活動に参加したので、事情を全く知らなかったのである。隣に座っていた弓削が由紀雄と恭子のこれまでを簡単に説明すると畦地は、
「えっ、それホンマなん!? へえ、いつの間に二人はそんな関係になっとったん? アタシてっきり恭子ちゃんは津村君と付き合うって思ってた」
「やっぱりあぜっちも同じやってんなぁ、アタシらと」
塙は畦地の言葉に反応した。恭子と津村の関係は部活動にそれほど参加していない者の目にも誤認されるほど親密なのかと、皆は改めて納得した。
「ところで津村君は何処行ったんやろう?」
「まだ恭子ちゃんと一緒に居るんちゃう? あの落ち込み様やったら放っとけへんからねえ。恭子ちゃん、ホンマに大丈夫かな?」
弓削は本当に別れたかどうかは別にして、恭子の明らかに気落ちしていた表情が脳裏に浮かんで前にも増して恭子が心配になってきた。
「何で津村が付き添うことになったん?」
奥園が誰と特定せずに尋ねた。
「最初はアタシらが付き添うはずやってんけど、津村君が『倉持と話あるから』って言うから代わってあげたんよね。何を話すのかまでは悪いと思って聞いてへんけど」
小野沢が意味深な返答をした。奥園は心当たりのある者を探し回ったが、誰一人として該当する者はいなかった。
「まさかあいつ、この気に乗じて横取りしようとか考えてるんやないやろうな? それやったらスキャンダルやで」
初芝は得意のワイドショートークを始めたが、誰もクスリとも笑おうとはしなかった。冗談にしてはあまりに無礼で、それでいて現実的に思えたからである。
「お前、それあいつの前で言えるか?」
山崎は声を潜めて初芝を真顔で見つめた。
「いや、そんなもん本人居らんから言えるに決まってるやん」
初芝は少し慌てて苦笑いを浮かべた。
「そういう冗談は慎め。あいつ居ったら殴られてるぞ、確実に」
山崎がとても真面目に言うので、初芝も神妙に頷いた。山崎は更に加えて、
「まあ、俺もこんなこと言ってるけど、ホンマは俺も気にはなってんねん。ただ変に想像するよりはあいつから話すのを待ってやった方がええんやないかなってそう思ったんや。その方が誰も嫌な思いせんでええやんか?」
確かに事実を知りたい欲望は強いが、それが暴走したために誰かが傷付いたり不快な思いをしたりするのは間違っている。そんな考えが彼らの頭によぎって、これには皆納得せざるを得なかった。しかし、山崎の穏やかな口調が幸いして、場の空気が白けることはなかった。そのため彼らはすぐに気を取り直して酒を交わすことができたのである。
彼らが店を出た後も津村は姿を現さず小野沢と塙は家路に就き、他の者たちは駅前のカラオケボックスに直行した。銘々が十八番を歌い合っている時、山崎の携帯電話が甲高い音を立てた。出るとかけてきたのは津村だった。何かを訴えている声が他の者たちの耳にも聞こえたが、細部が聞き取れなかった。山崎は駅前のカラオケボックスに来るように津村に伝えた。電話を切ってから数分後に津村は肩を落として現れた。酔っているのか足下はおぼつかず不自然ににやけていた。津村は部屋に入るなり聞き取れない叫び声を挙げたかと思うと、体をソファーに突っ伏したまま動かなくなった。唸り声を挙げている津村の背中は何か救いようのない寂しさを物語っていた。ただならぬ異様な気配を感じた山崎は津村を外に連れ出し、他の者たちはカラオケどころではなくなって二人が戻ってくるのを待つことにした。
数時間後、津村は今泉のアパートで休むことになり、部屋には山崎だけが戻ってきた。
「津村君、どうやった?」
弓削が山崎に尋ねると、山崎は一回頷いてから、
「大丈夫や。一晩寝たら状態も良くなってるやろう。それよりみんなびっくりしたやろ? 最近あいつ何かおかしくってなぁ。原因は一応分かってるから対処はできるんやけど……」
「原因は一体何やの? もしかして礒部君と恭子ちゃんのことに関係してる?」
弓削の質問に山崎は一瞬逡巡した表情を見せたが、初芝が以前旅行中に弾き出した津村に関する予想を話すと、山崎は「そこまで言われたら仕方ないなぁ」と独り言を漏らして続けて「その通りや」と答えた。
「ついでに言うと、今日津村が倉持に付き添ったんはもちろん倉持を励ますためでもあるけど、自分の気持ちを伝えるためでもあってん。礒部と倉持があんな形で別れてしまったから、あいつは遠慮せんと『この際礒部のことはきっぱり忘れて俺と付き合ってみるか?』って言ったんやけど、倉持は『ありがとう、でもアタシ、津村君とは付き合えへん。津村君は大事な友達やけど、それ以上には思えへんねん。正直言うと、今でも礒部君のことが好きやねん。別れちゃったけど、できたら前みたいにもう一回付き合いたいねん。それだけアタシにとって礒部君は大切な人やねん。ホンマごめんな、こんなに慰めてくれてるのに……でもアタシ、自分の気持ちに嘘付きたくないねん』って返したそうや。そんなん言われたらどうしようもないやん、せやから津村は無理矢理笑って、『そこまで思ってねんやったら、何があってもあいつのことをあきらめるな。もう一回あいつを振り向かせろ。お前の想いが本物やったらあいつももう一回付き合ってみようって思ってくれるかもしれへんし。頑張れ、お前は色んな意味で魅力的な女や、俺が保証したる』って励ましてやったんやて。自分は傷付いてもあいつは善人であり続けたんや。ホンマにお人好しやで、あいつは」
山崎はそこまで話すと、辛そうに肩を落とした。友として傷付きながらも他人の幸せを後押しする津村の姿が、思い出されるだけで忍びなかったのである。言葉の端々や辛そうな態度から山崎の優しさが痛いほど伝わってきたので、彼らの心は温かさと切なさに包まれた。そして彼らは彼らの知っている事実が、すでに遠くの世界の出来事のように感じられていた。
「一体この先どうなっちゃうんやろう?」
弓削が遠くを見つめて不安そうに言った。
「分からん。こればっかりはあいつらの気持ちがどう向かうかによって全然見当違いなことになってまうやろうからなぁ」
お調子者の初芝までが神妙な物言いを始めた。自分の予想が当たった嬉しさは表情には全く表れていなかった。それだけ事態は深刻を極めたのである。異性を友達としか思わずに生きてきた恭子を傷付けてまで熱中させる恋愛、沈着冷静が持ち味だった津村の心を乱し荒らさせる恋愛、そしてマイペースな由紀雄のペースを崩し不協和音を与えた恋愛、彼らにはそれが同じものとは到底思えなかった。人に応じてその姿を変え様々なやりかたでその人の生活に多大な影響を与える恋愛は、彼らには不可視の怪物のように思えて仕方がなかった。その怪物に三人はどうやって立ち向かっていくのか、それは彼らの想像だけでは量り知ることの出来ないことだった。
「まあ、女の子は大概好きになられるより好きになることに恋愛の楽しさを見出すって言うからねぇ。やっぱり自分が好きになった人に振り向いてもらった方が嬉しいんかも。そう考えると、恭子ちゃんって恋愛の醍醐味を知ってるんやろうなぁ」
畦地が場の暗くなりそうな空気を一転させるような明るい声で言った。少しだけ和んだ雰囲気が蘇った。
「傷付いても同じ人を好きやって思い続けるってなかなかできることやないからねぁ」
弓削も畦地に同調して率直な意見を言った。
「その気持ちがあるんやったら、すぐ縒りが戻るんやない?」
「そう簡単にはいかんやろ。お互い頑固やしあれだけキツい喧嘩した後やから、なかなか素直にはなれへんと思うで」
奥園が畦地の意見に難色を示した。昼間の惨事が容易な考えの邪魔になった。
「今は素直になれへんでも、気持ちがあり続けたらいつかは素直にもなれると思うで。だからこそ津村君を振ってでも礒部君に一途になれるんやないんかなぁ?」
畦地は更に自分の意見を押し通した。どこから自信が湧き上がっているのか他の者たちには分からなかった。
「それは『ラブ』と『ライク』の違いも関係してるんないんかなぁ?」
初芝がいつもの調子を取り戻したように言った。皆が初芝の方に顔を向けると彼は続けて、
「つまり倉持が礒部に最初に抱いた感情は『ラブ』で、津村に最初に抱いた感情は『ライク』、これは日本語にするとどっちも『好き』やけど、その程度は全然違う。『ラブ』の場合は一人の相手にしか向けない唯一無二的な『好き』、『ライク』の場合は多方向に向けられる代わりは幾らでもある『好き』やねん。おそらく倉持は今まで男に対して『ライク』しか感じたことなかったんやろう。そういう奴は初めての『ラブ』で戸惑うことが多いねん。『ライク』の要領でやってしまうと勝手が違うからミスっちゃうねんなぁ。その失敗から色々学んで生かせたら問題はないんやけどな。それに最初は『ライク』で接してた相手に急に『ラブ』で接してもアカンねん。シフトチェンジが思うようにできへんからこの場合やと自滅するパターンが多いなぁ。
まとめると、倉持が礒部に強い『ラブ』を持ってる以上幾ら津村が礒部より倉持に対して強い『ラブ』を持ってても津村は礒部を超えることはできへんってことやねん。何故なら自分の好きな女に彼氏や片思い中の人がいて、そいつより自分が勝っててもその好きな女に『ラブ』と思われてる時点でそいつの勝ちなわけやから。だから『ラブ』は価値が高くて、みんなはそれを必死で追い求めるわけやねん。
もう一つどんなに一人の彼女に『ラブ』を持ってるって言ってても、他の女と浮気したらそれは『ラブ』やなくて『ライク』でしかないわけや。もし彼女に強い『ラブ』を持ってたら他の女に靡くことなんかないんやから」
「要するに、単純な『好き』が『ライク』で、『愛してる』が『ラブ』やって考えたらええんか?」
山崎が野暮ったく尋ねた。体格の良い野武士のような山崎が『ラブ』と口にする様が、他の者たちにはどこか滑稽に見えた。山崎が到って真面目な表情であることが更に拍車をかけた。
「まあ、そんなところやな。俺が思うに、『絶対に揺らぐことのない心と体両方で結ばれているもの』が恋愛における最高の『ラブ』やないかな? 片想いの時の『ラブ』は相手を想う気持ちがとても強いってだけのものやから外部の力でどうにでもなってまうからなぁ……」
初芝の持論は一向に止まる気配はなかった。それを聞きながら他の者たちは、夜が明けるにはまだまだ時間がかかるだろうと思った。それまでに自分たちは何をしていればいいのか、それは誰にも見当がつかなかった。
第三章 最終決戦
北風が吹き抜ける勢いそのままに冬が過ぎても、心が躍るような陽気に包まれた春を迎えても、そして何もかもを解放的にしてしまう夏が訪れても、磯部由紀雄と倉持恭子の関係は一向に回復の兆しを見せなかった。部室で鉢合わせることがあっても、二人は一切目も合わせず一言も言葉を交わさない日々を繰り返していた。お互いがお互いを避けることに神経質になり過ぎていることが誰の目にも明らかだった。特に二人の関係の盛者必衰を知る同回生たちは、恭子が由紀雄に強い未練があることを知っているだけに余計に悲痛な眼差しで二人を見守るしかなかった。何とかしてやりたいが、こればかりは自分たちがいかなる形で介入してもどうにもならない。彼らの歯痒さは日に日に募る一方だったが、そんな彼らを尻目に季節はどんどん過ぎていき、二人の別れの兆しが見え始めた秋が再びやってきた。
季節外れの長雨を目の前に、弓削加奈子がすぐに見飽きてしまうはずの灰色の空を見つめながら、
「ねえ、知ってた? ウチの部活って昔から結構部内恋愛が盛んやったんやて。各回生に必ずカップルが居って、それがもうここ数十年も続いてるらしいで」
「ホンマに? 何でそれが分かるん?」
近くで創作活動をしていた今泉豊が、作業の手を止め弓削の方に歩み寄った。
「これ見て。ここのところに書いてあってん」
弓削が今泉に見せたのは、総合芸術部が毎年自費出版している冊子『芸春』の二〇〇三年度版だった。弓削が開いた四十八頁には、
諸先輩の話によると、この部活では恋愛が他の部活よりも著しく盛んで、これまでにもたくさんのカップルが誕生し、中にはそのまま結婚までいった人たちもいたそうだ。うまくいったいかなかったは別にしてここ数十年は連続してカップルが誕生して、総合芸術部内の恋愛は黄金期を迎えているようである。しかし最近では結婚まで行くケースはほとんどなく、学生時代の淡い思い出に終わっているのは聞いてて残念に思った。
と、妙に畏まった文章が載っていた。
「続いてるのもすごいけど、結婚までいくってのもすごいなぁ」
今泉は腕組みをして感心したように言った。
「そうやね。アタシらがリアルに知ってる原野先輩と森川先輩とか、それにヤギーさんとハルちゃんさんとかも足したらもっと長くなりそうやなぁ」
「あの人らは有名なおしどり夫婦やったもんなぁ。結婚までいくこと間違いなしってみんな言ってたぐらいやったし」
「ええよね、いつまでも続く恋愛って。何か夢があるって言うか見てるだけでワクワクするって言うか」
「そのワクワクも俺らの代で一回途絶えてしまったんやなぁ。歴代の先輩に何か申し訳ないなぁ」
「あぁ、そうか。恭子ちゃんと礒部君なぁ。アタシらの場合はカップルができたこと自体が奇跡みたいなもんやったからなぁ。さすがに一回別れたらもう戻らんやろうなぁ」
「倉持は未練があるみたいやけど、礒部の方はそうでもなさそうやしなぁ。一回別れたらそのまま終わってしまうっていうのは今も昔も変わらんみたいやね」
今泉は開いてある頁の先の方を指して言った。そこには変わらず畏まった文章で、
これまでの総合芸術部の歴史上、一度別れて後再び縒りの戻ったカップルは一組もいないらしい。もしこの先そんなカップルが誕生したら史上初だろう。僕のいるうちに出てくるかどうかは分からないが、是非ともお目にかかりたいものだ。
と、書かれていた。弓削は今泉を一直線に見つめて、
「なぁ、思ってんけど、もし礒部君にもう一回恭子ちゃんと縒り戻したいって気持ちが万が一あったら、二人は縒り戻せるんやないかな? よく考えたらアタシらって礒部君の気持ちを全然知らんわけやんか? 彼次第じゃこの部活の歴史を変えられるんやないかな?」
弓削がそう言った時、別れる以前も以後も由紀雄は誰にも恭子への想いを口にはしていないことに二人は気付いた。
「礒部の気持ちか。それを知ろうとすることは、兵士が素っ裸で戦場に突っ込んでいくようなもんやで」
今泉は由紀雄の内面に迫ることの無謀さを、分かりやすく滑稽に言い表した。弓削は心では「その通り」だと思いながら、素っ裸で戦場に突っ込んでいく兵士を想像し、その様があまりに間が抜けていたので不意に吹き出した。それでも気を取り直して、
「でも、礒部君の気持ちが分かれば何とかなるかもしれへんやん? そのためにはアタシらだけじゃどうにもならんやろうからみんなの協力、特に津村君の協力が一番必要になるねん。二人に直接何か言えるのは津村君だけやし」
「でも、ちょっと待って。津村は倉持さんとの一件があるから協力してくれるかどうか分からへんで。頼んだところで気まずくて断られそうな気がすんねんけど……」
「そこを何とか頼み込むねんて。そうでもせんと何も変わらんままやで。それに津村君かて最近見てても落ち着いてるようやったし、もういい加減気持ちの整理付いてるんちゃうかな? うまくやれば全ては万事解決やって。なぁ、やるだけやってみようや」
「うん、確かに何かを変えるには無理もせなアカンよな。じゃあ一回みんなに話してみようか。それでみんなが賛成したら本格的にやってみようや」
今泉は弓削の熱意に押されて、協定を結ぶことにした。友のために必死になれる彼女の情のこもった優しさが、彼女の原動力なのだろうと今泉は思った。
弓削と今泉が協定を結んだ翌日、今泉のアパートに由紀雄と恭子以外の三回生が集まっていた。そこで弓削は今泉に話した自分の考えを皆の前で発表した。緊張の面持ちで皆に視線を向けて話す弓削を、誰も下を向かず聞いていた。話し終えると真っ先に初芝秀郎が手を挙げた。
「まあ、せっかく倉持も必死で礒部に恋してるわけやから、もう一回アタックするのもええんやないの? もし自分で踏ん切りが付けられへんのやったら俺らが協力してやったって悪くないと思うで」
それに続くように奥園竜一郎、小野沢麻耶、畦地晴美の三人が同様の賛成意見を手短に言った。塙優香は「どっちでもいいよ」と言い残して体を横に倒した。
続いて手を挙げたのは山崎寛造だった。
「俺は別に頭ごなしに反対って言うわけやないんやけど、無理矢理また言い寄るのは今の時点で悪い関係を余計に悪くしてしまう気がするねんな。そんな危険を冒してまで元に戻させようとしないでも、自然に会話ができるようになるのを見守ってやった方がええと俺は思うな。ところで、津村はどう思う?」
山崎は話を聞き終えた後、考え込んでいる津村夏樹に話を振った。これから行うことの重要人物なだけに、皆は彼が何を話し出すか固唾を呑んで待った。そして津村はしばらく黙ってから、
「もし可能性があるんやったら、あきらめへんでもええと思う。それで倉持が幸せになれるんやったら、俺は協力したってもええし」
意外にあっさりとした賛成意見が津村の口から聞かれたことが、他の者たちには信じられなかった。一番驚いていた山崎が少し慌てた様子で「ホンマにええんか?」と尋ねた。すると津村は迷いを感じさせない態度で、
「確かに倉持にあんなこと言われた直後とかはなかなか気持ちの整理が付かへんでイライラしてたけど、冷静に考えたら倉持の礒部への思いの強さに比べたら俺の想いなんてメッチャ弱いもんやってわかったから、俺かていつまでもガキっぽいことできへんししたくないからな、
それやったらあいつの想いを尊重してやった方がええやんて思うようにしてん。やから今はもう大丈夫や。それより、今更言うのも襲いけど、前は俺が勝手にキレてみんなに迷惑かけてホンマに悪かった」
津村はそう言って軽く頭を垂れた。それを見た山崎は納得した表情を浮かべて、
「まあ、お前がそう言うんやったらそれでええけど、やるんやったら自然なやり方に徹しないとな」
側にいた細見功俊も同じような表情でコクリと頷いた。これで全員の考えが一致した。彼らの心は徐々に晴々となっていった。
「よっしゃ、これで決まりやな。ほんなら明日から少しずつ二人の縒りが戻るように俺らも動いていこう。俺らで総合芸術部の歴史を変えようや!」
今泉の一言に皆も熱く反応し、「おう!」と高らかに拳を挙げた。一体どんな結末を迎えるかということは誰にも分からなかったが、やる気や使命感だけは逞しく彼らの心に熱く湧き上がっていた。
* * *
決起集会の翌日、由紀雄の気持ちを知るために津村が、恭子の気持ちを確かめるために弓削と小野沢がそれぞれ二人と会った。二人が別れてからすでに半年が経っていたこともあって、その話題をできる限り自然な流れで持っていくことに彼らは随分骨を折った。
まず由紀雄の方は、始めは「もう関係ないやん?」と突っぱねることに終始していたが、津村が苦し紛れに放った一言が由紀雄の心に火を付けた。
「お前は嫌なことがあったらいつまでも逃げるようなダメな男なんか? そんな男好きになった倉持はホンマにお気の毒様やなぁ」
その瞬間、面倒臭そうに聞いていた由紀雄の目付きがキッと鋭くなり、津村は殺気を感じが努めて冷静に由紀雄の言葉をしっかりと心に刻む準備をしていた。
一方恭子は、やはり由紀雄と同じく「もう関係ないよ」と口篭るばかりで本心を口にしなかったが、
「恭子ちゃんかてこのまま終わりたくないやろ? 別れても好きってことはそれだけ想いが強い証拠やん? それだけの想いがあるんやったらそれを無駄にしたらアカンて。ちゃんと気持ちを伝えたら礒部君かて分かってくれるって」
と、弓削と小野沢の熱意に溢れた説得に心を動かされ恭子は、涙をうっすら浮かべながら重い口を動かした。弓削と小野沢は恭子の内なる想いをジッと待った。
その夜、三人の結果報告が秘かに今泉のアパートで行われた。まず先に恭子の気持ちを確かめた弓削がウキウキした感じを漂わせて報告し始めた。
「今でも恭子ちゃんは礒部君のことを完全にはあきらめてへんみたいやったわぁ。やり直したいって気持ちはあるんやけど、ひどい喧嘩別れしたからなかなか自分から『もう一回やり直そう』って言う勇気がないんやて。ただ、『もう一回付き合うならやっぱり礒部君以外は考えられへん』って言ってたわぁ」
弓削の報告が終わると、控えめな歓声が一斉に挙がった。そして次に皆が一番知りたがっていた由紀雄の本心を、津村が赤く腫れた右頬を擦りながら話し始めた。
「早い話が礒部は衝動的に別れたことを後悔してるみたいやねん。メチャクチャ嫌いになったわけやないけど、自分から『別れよう』って言った手前自分からは『縒りを戻そう』とは言えへんらしい。でも、あいつは倉持と他人にはなりたくはなくて、『この先倉持さん以上の相手とは出会えへんやろう』ってことやとさ」
今度は大袈裟に聞こえるぐらい大きな歓声が一斉に挙がった。由紀雄の言葉が何を意味するか、皆には言わなくとも分かったからである。
「これで二人の気持ちは概ね同じってことが判明したわけやけど、問題はこれからどうやって二人が縒りを戻せる状況に持っていくかや。こればっかりは俺らがやたらとおせっかいを焼くわけにはいかんから、難しいよなぁ」
今泉の一言に浮かれていた皆の表情が暗転した。二人の気持ちを確かめたまではいいが、その先どうやって自然な形で二人の縒りを戻せばいのか、誰にも見当が付かなかった。これといった意見が出ず沈黙の時間が長くなりそうになったその時、
「とりあえず倉持がもう一回礒部に告るのが、一番手っ取り早いんとちゃうやろうか? 最初付き合い始めた時も倉持から告ったわけやから、もう一回同じことやれば一応自然な形になると思うんやけど」
初芝が沈黙の前進を阻止した。隣にいた細見が「何で?」と尋ねてきたのに対して初芝は、
「簡単な話や。自分の蒔いた種は自分で摘むか、それか育てるのが道理ってもんやん? 倉持で始めたことは倉持で収拾を付ける、その方がアイツらも納得するんやないの?」
「それもアタシらが促した方がええんかな?」
今度は小野沢が初芝に尋ねた。初芝は小野沢の方に向きを変え、
「その必要はないな。今日お前らが色々言ったので、倉持が自分で考えて言うかどうか判断すると思うから、俺らはそれを待ってたらええねん」
「それも自然の流れってこと?」
「まあ、そんなところやな」
「けど、倉持さん『もう一回やり直そう』って言う勇気がないんやろ? それやのに言うのを待ってて大丈夫なん?」
更に奥園が尋ねてきたが、初芝が答える代わりに畦地が、
「大丈夫やて、恭子ちゃんやったらできるやろう。女の子ってのはね、いざって時には強くなれる力を持ってるもんやからねぇ、腹を括ればどんなことでもできるもんやで」
と、妙に自信たっぷりに言った。きっと自分たちの知らないところで色々経験しているからそんなことが言えるのだろうと奥園は思った。
「ところで、津村君さっきから右頬擦ってばっかりやけど、どないしたん?」
弓削はまだ右頬の腫れを気にしている津村を気遣った。
「礒部の本心聞く時、わざとあいつがキレそうなこと言ったんやけど、そしたらあいつホンマにキレて思い切り殴られてもうてなぁ。全く手間のかかる奴やで。まあ何かの罰や思うしかないな」
平気そうに薄笑いを浮かべる津村を、他の者たちは痛々しい眼差しで称えた。津村は以前学部の講義で「痛みのない成功はない」というある偉大な技術者の格言を聞いたことを思い出した。今の自分はそれを地でいっているのかと思うと、おかしくてまた薄笑いが浮かんできた。
その後これといった意見が出てこなかったので、
「これからは俺らが何かするより礒部か倉持がどうするかを見守ってやる方がええやろうから、二人が動くのを待とうや」
今泉が一応のまとめを出して、話し合いの場はお開きとなった。そして由紀雄の内面に果敢に挑んだ功労者の津村には、今泉と弓削から津村が普段愛飲している煙草三箱がプレゼントされた。津村はその一つを開け一服を始めたが、まだ痛むのかしきりに右頬を気にしていた。そんな津村に誰からとなく「大丈夫?」と声をかけ、彼もそれに苦笑いで答えた。彼らの心は徐々に一つの目標を達成させるために結束を固めようとしていた。
こうして一途な恋の行方は、二人の心が再び向き合うか否かにその明暗が委ねられた。
* * *
待つと決めた日から数週間が経ったある日、部室で今泉が後輩たちと遊んでいるところに、弓削が血相を変えて入ってくるなり、
「さっきここ来る途中に恭子ちゃんと会って、『今から礒部君にもう一度気持ち伝えてくる』って! 恭子ちゃん、やっと決心したみたいやで!」
「ホンマに!? 行こう! 俺らだけでも歴史の目撃者になろう!」
今泉はそれまで自分がやっていたことを急いで片付けて弓削を追うように部室から出て行った。後輩たちはわけも分からず先輩たちの背中をしばらく目で追っていたが、彼らは全くそれに気付かずただ全速力で駆けていた。
大学の二つのキャンパスを結ぶ銀杏の並木道に、一本だけ一際大きい銀杏の木がある。大学創設五十周年を記念して植えられたものである。日が暮れてライトアップされたその下に、硬い表情でお互いに目を合わさずに下を向いている由紀雄と恭子の姿があった。一体どこまで話が進んでいるのか、そこから離れること数メートルの所から暗がりのカモフラージュを利用して、二人の行方を見守る今泉と弓削には全く分からなかった。ただ均衡した状態にあることは把握できた。
「一体いつまであんな状態なんやろう?」
今泉はじれったさを隠し切れずに言った。
「そんなん分からんて。きっと恭子ちゃんいっぱいいっぱいなんやろうなぁ。大丈夫やろうか?」
弓削は心配そうに二人を見つめていたが、見ていられないのか時々視線を下に逸らした。
更に数分が経った時、二人の様子に変化が起きた。恭子がしきりに目頭を押さえ、両肩を小刻みに上下させている。しかしそれでも口はたどたどしくも動いている。恭子は必死に身の削れる思いをしながら「縒りを戻そう」と訴えている。それに対する由紀雄の行動が二人の恋愛に決着を付ける。事態は局面を迎えたことを今泉も弓削も見て取り、目を皿のようにして由紀雄に見入った。次の瞬間……恭子の両肩に由紀雄の両手がかかり、ゆっくりと恭子の上半身が由紀雄のそれに吸い込まれるように引き付けられていく。そして、恭子は由紀雄の胸の中に顔を埋めた。
「!?」
今泉も弓削も、声にならない叫びを挙げた。そして改めて二人の方に目を向け直した。由紀雄が恭子の耳元で何かを囁いている。しかし恭子はどこか不安そうな表情を浮かべている。それを見ている今泉と弓削も不意に不安がよぎった。縒りが戻ったことが確定したなら何故恭子は不安そうな表情をしているのか、縒りが戻っていないのなら何故由紀雄は恭子を抱き寄せているのか、彼らには二人の行動の矛盾が飲み込めないでいた。しかし、その矛盾は由紀雄の次の行動で一気に解消された。由紀雄は恭子を一回ジッと見つめると、素早く唇を恭子のそれに近づけた。重なり合う唇と唇。数秒の間が空いた後、今度はお互いの額がゆっくりとくっついた。すると不安そうだった恭子の表情は、実に晴れやかになっていた。
「よっしゃあ!」
思わず今泉も弓削も歓喜の声を挙げた。自分たちの思い付きが間違いではなかったことが最高の結果で証明されたので、どうしても感情を抑えることができなかったのである。彼らは再び愛を取り戻した二人に小声で「おめでとう」と言い残して、足早に並木道から退散した。一度弓削が振り返ると、二人の仲睦まじい後姿がどんどん小さくなっていた。
その後由紀雄と恭子以外の三回生は、馴染みの居酒屋で歓喜の杯を交わしていた。「ひとまずおめでたいからみんなで飲もう」と今泉が提案したのである。彼らはいま一つ実感が湧かないながらも、由紀雄と恭子の復縁を祝福した。
「それにしても、よく礒部は倉持ともう一回付き合う気になったなぁ」
細見が側に置いてあった揚げ出し豆腐を突きながら言った。
「ホンマやなぁ。あんだけキツい別れ方したのに、やっぱり好きって気持ちがあったからなんかなぁ?」
奥園は赤い顔をして不思議そうに言った。
「それだけやないやろう。やっぱり礒部は倉持に『愛』を感じたから倉持をもう一回受け入れる気になったんとちゃうかなぁ? この場合やと、もう一回傷付くかもしれへん『リスク』を承知で、倉持が真正面から礒部と向き合った。そこに礒部は倉持の本物の『愛』を感じたのかもなぁ。まあ、人を愛する上で必要なのは『過去を気にせず、その人の全てを認められる』ことやって言うし、それを二人は実行できたってことなんやろう」
初芝が細見と奥園の疑問にいとも簡単に答えを出した。いつ聞いても初芝の意見には説得力があった。
「そうなんかなぁ? よく分からんけど……おっ、ニッポンシリーズやってるやん。なんや、一方的な展開になってるんかぁ。俺プロ野球はもちろんやけど、ニッポンシリーズが毎年楽しみでなぁ。今年は珍しい組み合わせで第七戦までいってるからちょっと注目してたのに、残念や」
奥園は居酒屋の脇にあるテレビのプロ野球中継に釘付けになった。セ・リーグ優勝チームの長崎ネイビーズと、パ・リーグ優勝チームの群馬Jセルラーウッドペッカーズが対戦していて、試合は八回表を終了して五―〇でJセルラーがリードしていた(注三)。
「そんなしょうもないもん見てへんで、もっと飲めや」
初芝が奥園に無理矢理ビールを流し込もうとした。しかし抵抗する奥園の目には信じられない展開が映っていた。八回の裏にそれまで相手の先発投手を打ちあぐねていたネイビーズ打線が突然安打を連続して打ち、内野安打と死球を重ねて一点返した後、四番打者が左中間方向に満塁本塁打を放ちネイビーズが五点差を追いついたのである。他の者たちもその瞬間だけテレビに見入った。沸き立つ歓声が他の音を消してしまう勢いで轟いていた。
「すげえ、こんなことがあるんやなぁ」
野球に詳しい者もそうでない者も、感嘆の声を挙げた。すると弓削がポツリと、
「この展開さあ、礒部君と恭子ちゃんの関係に似てなくない?」
「そういえば、そうかもしれへんなぁ。絶対無理やって展開から元に戻したってところがなぁ」
奥園が嬉しそうに言った。彼の嬉しさが由紀雄と恭子のことに対して向いているのか、それとも野球に対して向いているのか誰にも分からなかった。ただ考えても仕方がないので、どちらでもいいのではという決論を下してそれぞれ元の位置に戻った。
「ただ、あの段階ではまだ同点になっただけで、勝負はこれからやで。もしまたあいつらがお互いの不満に耐えられへんようになったら結局また同じようになり兼ねへんで。まあ、お互いの嫌いなところもしゃあないと思えるようになってたら、話は別やけど」
津村は劇的な展開に水を指すことを言った。彼としてはこれぐらいのことを言いたくなるのは無理ないなと誰もが思った。
「それもそうやねぇ。元彼と縒りが戻ったからって必ずしもそのままハッピーエンドとはいかんもんねぇ。失敗する確立の方が高いってよく聞くし。新しい女の子見つけるのが面倒で前の子ととりあえず縒りを戻してまた嫌になったら別れるっていう男は最低やけど、礒部君はそんな人やないって信じたいねぇ」
畦地の意見は実体験が伴っているのではないかと他の者たちは思うようになった。思いつきや知識だけでは出てこない言葉が多いと感じたからである。すると初芝が赤く真面目な顔で、
「恋愛とは、自分一人が盛り上がっても何の意味もない。お互いがどうすれば快楽を共有できるかを極めることに意味がある。そしてそのためにはただ何もしないで平坦な関係に甘んずるのではなく、自分たちの関係に一捻りを加える。そうすれば関係に刺激が加わり長続きできる。では一捻りの具体例はと言うと……」
「最後まであきらめず喰らい付き、自他共に信じられないサプライズを起こすことなり!」
突然奥園が興奮した様子で割り込んできた。ニッポンシリーズは八回裏に同点に追いついたネイビーズが延長十回裏に二死一、三塁という状況で六番打者が投手と一塁手の間に絶妙な犠打を決め決勝点を上げ、サヨナラ勝ちで初の日本一に輝いていた。決め台詞を邪魔された初芝は「ちゃうわ、ツンデレみたく普段は素っ気なくしながら、二人きりになったら思い切り愛し合うことなりや!」と奥園に飛びかかった。羽交い絞めにされた奥園は何故か楽しそうに笑っていた。
「礒部君と恭子ちゃんも、こんな風になれるかなぁ?」
弓削がテレビ越しの歓喜の瞬間を見つめて言った。
「まあ、それはあいつら次第ってことで、俺らは今夜はパーっと楽しく飲もうや」
今泉はビール瓶を片手に上機嫌に言った。弓削も「そうやね」と愛敬たっぷりに言った。彼らの宴はまだ始まったばかりである。
恋愛にも野球にも奇跡が起きたこの日、それぞれの歓喜の輪は夜が明けても途絶えることはなかった。
エピローグ
かつて関畿大学総合芸術部に所属していた津村夏樹は、人材派遣会社の営業係として、新規の得意先を発掘した祝いの宴を終え深夜を大幅に過ぎて自宅に戻ってきた。郵便受けを開けると、新聞とチラシの他に差出名が記載されていないピンク色の封筒が入っていた。彼には見当がつかなかった。部屋に入り恐る恐る封筒を開けてみると、中から一枚の便箋と写真が出てきた。
津村君へ
お久しぶり! 元気にしてまちゅかぁ? この度由紀雄君とアタシは晴れてパパとママになりましたぁ! 体重三千三百九十グラムの元気な男の子でぇす! 名前は二人で考えて、「大空を大きく羽ばたくように育って欲しい」という願いを込めて、「大空翔(たくと)」と命名しました。当て字過ぎて市役所の人は困ってたけど、でもそんなの関係なぁい(笑)
この子がこうして元気に生まれきたのは、ある意味津村君のおかげかもしれへんなぁ。津村君にハッパかけられへんかったら、こうして由紀雄君とずっと一緒に居られへんかったかもしれへんし。せやからホンマに感謝してます、ありがとう。
またいつか、部活のみんなや津村君と会える日を楽しみにしてまぁす。では、由紀雄君に交代!
そういうわけで、俺と恭子は幸せにやってるで。正直親父になった実感はまだ薄いけど、これからは恭子と大空翔と一緒に楽しい生活を過ごしていこうと思う。あの時津村に「お前は嫌なことがあったらいつまでも逃げるようなダメな男なんか? そんな男好きになった倉持はホンマにお気の毒様やなぁ」って言われてメッチャ腹立って殴ってもうたんは、今更やけど悪かった。けど、あれで俺はまだ恭子のことが好きなんやって自覚できた。今俺が幸せなのはホンマに津村のおかげや。大切なものが何かを教えてくれて、ありがとう。
恭子も言ってたけど、いつかホンマにみんなで会いたいなぁ。もう話すことないんで、俺からはこれで終わるわぁ。
それでは、シーユー アゲイン バイバイ!
ドント ウォーリー、ビー ハッピー!
素晴らしき友へ 礒部由紀雄・恭子
手紙に添えられていた写真には、男の赤ん坊を挟んでとても幸せそうな笑顔の由紀雄と恭子が映っていた。二人の左の薬指には、飾り気はないが二人の絆を確かなものにするには充分なプラチナの指輪が遠慮がちに光っていた。
「全く、幸せなオーラ出し過ぎやっちゅうねん」
津村は呆れたような笑顔で、二人に聞こえないと分かっていながら写真の二人に向かって言った。手紙の中で、二人はしきりに「今も自分たちがいるのは津村(君)のおかげ」だと言っていた、そのことが津村には嬉しくもあり苦々しくもあった。もしかしたら恭子と幸せになっていたのはじぶんだったかもしれない、あの時もっと強くアタックしていたら状況は変わっていたかも……しかし津村はそれ以上考えるのをやめた。いつまでも終わったことをネチネチ悔やむのは無駄だし嫌だったからである。その代わりに津村は「これでよかったんや」と思った。
(もしあの時倉持が俺を選んだとしても、倉持はあんなに幸せそうにはなってなかったやろう。礒部は倉持にとっての「一生に一度の人」やったんや、だから一回振られても好きでい続けられたんや。そして遂に礒部にも同じように思わせた。これはもう執念以外の何物でもないなぁ。恐れ入るで、どうしたらそんなに好きになれるんやろうなぁ。
まあ、子供も産まれて楽しそうにやってるんならそれでええけど、このままあいつらばっかり幸せになられるのも何か癪やなぁ。よし、いつか仕返しできるように早いこと連れ以上に思える見つけたろう)
津村は長らく避けていた本格的な恋愛に徐々に意欲的になっていく自分に気が付いた。そして、やはり恋愛はどんな人間でも避けて通ることはできないものなのだろうと思った。そのせいか、いつもと変わらぬはずの夜空が心持ち綺麗に感じられた。彼の心も目の前の星空のように心地良いぐらい晴れやかだった。
物語はこれで終わったわけではない。それぞれの幸せを追い求める物語は、これから始まるのである。
〔完〕
(32,439文字)
注
(注一)…ビッグコミックスピリッツ編集部・編『相性まるわかりの動物占い 改訂版』の「狼攻略法 恋愛編」より引用。なお、占いの結果もこれによる。
(注二)…山田かまち『17歳のポケット』より引用。
(注三)…本作品に掲載されているプロ野球関連の項目は全て架空のものである。
テキスト・参考文献リスト
◇テキスト
山田かまち 『17歳のポケット』 集英社文庫
一九九六年六月二五日 初版
◆参考文献
ビッグコミックスピリッツ編集部・編
『相性まるわかりの動物占い 改訂版』 小学館文庫
二〇〇六年三月一日 初版