『忘れえぬ人々』『武蔵野』(後期)

 「『武蔵野』を特徴づけているのは、風景が名所から切断されていることである。」これは柄谷行人の『日本近代文学の起源』P82、「内面の発見」6の頭にある一説である。発表の際にはこの「名所」について誤って理解していたので、まずはその整理をしておこうと思う。上の一文から分かるのは「武蔵野は名所ではない」ということである。では名所とはどんな場所のことか。それは、過去様々な和歌の中に詠まれてきた場所のことだ。例えば吉野山といえば多くの和歌で桜の名所として詠われているが、その多くは実際の吉野山を見たことのない人間が詠んだものだ。見たことがないのに詠えるのは、その場所、吉野山であれば「よしのやま」という単語から、さらにそれ以前に吉野山の桜を詠った多くの和歌が想起されるためであり、そういった意味に於いて武蔵野は名所ではないのである。同じように『忘れえぬ人々』に登場するいくつかの場所もまた、名所ではない。

 『忘れえぬ人々』を通して『武蔵野』を見ると、語り手である「自分」は忘れえぬ人を内に含んでいた風景、大野の文章に描かれた風景の中に存在しているように思える。もし武蔵野の中を歩くのではなく遠くから客観的に眺めて、そこに人がいるのを見れば、それは忘れえぬ人を含めた風景として作中の「忘れ得ぬ人々」に書き込まれるのではないだろうか。対比させるならば、『忘れえぬ人々』では風景として見るという形で一方的に干渉しているのに対し、風景の中に入り込んで相互に干渉しあっているのが『武蔵野』と言えないだろうか。
 では逆に『武蔵野』を通して『忘れえぬ人々』を見るとどうか。『武蔵野』には日記や「あいびき」の引用、和歌の転載など、この作品が小説や随筆等のどのジャンルに属するのか、また何を意図して書かれたものであるのか、読む者を混乱させるところが多い。それに比べれば『忘れえぬ人々』は小説の形式を成しており、一つの作品として読める。しかし『武蔵野』を通して『忘れえぬ人々』を見ると、わざわざ作中人物に同名の作品を読ませるという方法に違和感を感じざるを得ない。『武蔵野』ではテクストと読者の間に「自分」というはっきりとしたナレーターが存在し、作品を読ませているのに対し、『忘れえぬ人々』ではナレーターの存在を隠そうとしていると考えることが出来る。ここで出てくるのがリアリズムで、リアリズムは見たものをそのまま、ありのままに言葉に表現出来るという前提の元に成立している。つまり、『忘れえぬ人々』の形式は独歩がいわゆる「自然主義」の作品を作り上げるべく苦心した結果なのだ。しかし、リアリズムの前提それ自体がまず転倒であり、見たものをありのままに表現することは不可能であるということを忘れてはならない。


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「風景の発見」後半P29〜P50について(前期)

 「風景の発見」というこの章のキーワードは勿論「風景」であり、私が担当した後半部分では絵画の視点から見た「風景」や「風景」が初めて描かれたのがモナリザであること、西欧での「風景」の発見とそれが転倒する過程、そして日本での「風景」の発見について書かれている。授業内での発表の際には前から順にある程度ずつ纏まりを付けて理解していき、全体を見ることが出来なかったので今回は全体を見るようにしたいと思う。
 そもそも「風景」とは何なのか。風景は風景、絵画では人物の後ろに描かれているし小説では地の文として描写される。しかしそれとここでいう「風景」は違ったものである。「風景」は内的人間において見出されると本文にあるが、内的人間は風景を見て一方的にそこに自身の内面を投影し、自分勝手な意味を与える。そうして描かれたのが「風景」である。つまり「風景」が発見されるにはそこに投影する内面が見出される必要がある。内面が見出されるということは、同時に外界が見出されるということでもある。主観(主体)と客観(客体)というものも風景が見出された後に派生してきたものであって、「風景」の発見以前の世界では「風景」は勿論のこと、そういったものも存在してはいなかった。
 またリアリズムやロマン派といったものも「風景」から生じたものである。ロマン派は「風景」や対象物に一方的な感情移入をし、それとの一体化を図るというものであり、それに対してリアリズムは「風景」や対象物を一方的に見て冷静、正確に観察、写生するものである。これらは対照的なものにみえるが、対象物に対する態度から見れば同じところから派生しているのである。さらにここで重要なのは、「一方的に見ること」である。一方的に見ているからこそ己の内面を対象物に注ぎ込んで勝手な意味付けをすることが出来るのである。
 日本での「風景」の発見は明治二十年代であったとされている。明治十年代の自由民権運動に向けられていた作家たちの情熱はその集結と共に行き場を失い内向していく。そうして内面が見出され「風景」が発見されるわけだが、そのためにはもう一つ、内面を表現するための言語が作り上げられる必要がある。それこそが言文一致による新たな言=文なのである。


 ここからは発表の際に触れられなかった質問について私なりの回答をしていこうと思います。この部分のみですます調ですが気にしないで下さい。

阪本君からの質問
・P34後ろから9行目『登山は、それまでタブーや価値によって区分されていた質的空間を変形し均質化することなくしてありえないのである。』とはどういうことですか?
    「あの山は神様が住んでいるから入ってはいけない」というようなタブー、ルソーが『告白録』に書く以前までのアルプスに与えられていた「邪魔な障害物」という価値、そういったものによって異質な空間とされていた山を他の場所と何ら変わりのない均質な空間であるとし、それによって登山が可能になるということではないかと思います。

・P49後ろから3行目『この時期の内向的作家らは文語体に向かった』のはなぜなのですか?
    直前の「もちろん言文一致が憲法制度と同じく「近代化」の努力であるかぎりは、それはけっして「内部」の言語たりえない。」という一文から判断して、当時の言文一致はまだ近代化の努力であった、つまり「内部」の言語ではなかったと考えられます。そのため文語体へ向かったのではないでしょうか。

酒井さんからの質問
・29ページで風景は最終的に印象の勝利であり素材・光がすべてを支配した、と書かれているが、それはいかに印象の強い画であるかが最も重要視されたということなのでしょうか。それとも印象派が最も優れているということなのでしょうか。
    印象派は一連の美術史の流れの内の一つであるので印象派が「最も」優れていると言えるかどうかはわかりませんが、現在もそこから生まれた印象派の流れは生きていると思うので、そういった意味ではまさに印象派の勝利と言えるのかな、と思います。

・また、光とは陰があってこそのものではないのでしょうか。それともこの場合は光が当たることによって出来る物の影についてのことなのでしょうか。
    光の支配といっても、イコール陰が支配されるということではない気がします。本来光と陰は表裏一体のもので、陰を描かずに絵を描くのは難しいことでしょうし。ここで使われている「光」は絵画の中の効果としての「光の使い方」ではないかと思います。
    私の捉え方がまずいのかもしれませんが「風景の発見」の視点から見ると、「あるがままに書く」ということは出来ないのではないかと思います。「風景」が発見されるということはその「風景」は既に「あるがまま」には見られて(書かれて)いないということだと、私は理解しています。以下の二つはその前提の上で考えています。

・あるがままに書くということが、眼前のものを物体として意識することであり対象化することであるならば、そこに主観が見られるということなのでしょうか。
    そういうことだと思います。

・そしてまた、その主観自体が主体・客体という概念の上に成立するのであれば、一体、あるがままを書くとはどの様なことなのでしょうか。主観・客観なしに対象物というものは存在しないのでしょうか。
    対象物も客観物であると思われるので、主観・客観なしに対象物というものは存在しない、ということになるのではないでしょうか。


 正直なところ、視点が違っていたとはいえ、去年『日本近代文学の起源』を扱う他の授業に参加していたことは大きいと思う。その授業に参加していなかったら、現時点でも深いとは言い難い理解はより浅く見当外れなものになっていただろう。しかし、自分がそうだからといって、全員が同じ立場だという思い込みによる前提を作ってしまっていたところがあり、そこは反省しなければならない。
 「風景の発見」はテクスト全体で見ても第一章ということで理解しやすく、また後の章にも関係してくる内容で、半期掛けてようやく理解が深まってきたかなという状態ではあるが、自明の前提を疑うという視点は非常に興味深いものがあった。


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