後期レポート
【記憶喪失事件】
去年の年末はそんなに忙しかっただろうか。身の回りに大きな変化があったといえばあったのだが、忙しいと表現するのにふさわしい状況がそこにあったとは言い難い。そもそも忙しかろうが暇であろうが重要だと思ったことやインパクトの強かったものは大概憶えているはずである。
何が言いたいのかというと、去年の年末に言われたこと・連絡されたことがどうも思い出せないということである。
もっと具体的にピントを絞って説明すると、私の所属するゼミの後期の課題(レポート)について思い出せないのである。四百字詰原稿用紙に換算すると何枚書かないといけないか、締め切りはいつなのか、全く思い出せない。重要な情報であればメモを取るなど形にして残すようにしているのだが、それをやった形跡も見当たらず、挙句の果てにはレポートを出せという連絡があったかどうかすらよく分からなくなってくる始末である。
注意力のなさには自信があるがここまで人の話を聞いていなかった、聞いていても忘れてしまった、メモを取ることさえ忘れていたというのは始めてである。これが世に言う健忘症であろうか。
とりあえず平成十四年度後期のゼミについて感想でも何でもいいからレポートを書けといわれていたという情報を友人から聞いたのでレポート制作に踏み切ることにした。
【ゼミ感想】
後期の繻エゼミでは各自好きなことをお題にして発表してよしとのことであった。一見楽なようだが、これがなかなか難しかった。私には「これを語らせたら一日や二日では終わらない」というものや、「よく知らないけれど発表で取り上げたいと思うぐらいに興味がある」というものがなかったのである。
どうしても思いつかず前期に教材の中から選ぶという無難なこともやってしまったが、結局はそのことが「自分が何をやりたいと思っているのか」を改めて考えるきっかけとなった。
発表自体については、もう少し芸のあるものにしたかったというのが率直な感想である。実際にアンディ・ウォーホルを取り上げた発表を振り返っても、作品を中心にスポットを当てようとはしたものの結局は下手な作家論じみたものになってしまった。
では、芸がある発表とは具体的にどんなものなのか思いついたのかというと、そうでもない。未だに考え中である。
兎に角、発表で得た経験が卒論に生かせるように、ただひたすら模索、ただひたすら精進あるのみである。
【ガンプラの件について】
去年の年末、クリスマス前のことである。ある意味私以上にダメな友人が単位認定云々である教員にお世話になった。そこで、そのささやかなお礼兼クリスマスプレゼントをさしあげようという話になった。私も常日頃お世話になっているということで一部負担を快く引き受けた。そして購入したのが「機動戦士ガンダムシードシリーズ」、バンダイのプラモデルである。
ガンダムのプラモデルを手に取るのは小学校高学年以来であるが、予想以上に「ときめいて」もとい「小学生並に退行して」しまい、プレゼントをもらえるわけでもないのに妙にウキウキしてしまった。
店員の「プレゼント用に包装しましょうか?」という問いに「これ以上包装するのなら箱は要らん。中身のみ寄越せ。」という地球に優しいのかそうでないのかよくわからない返答をして友人の失笑を買いつつ無事購入。友人宅に保管もとい放置した後Eキャンパス新館にて贈呈。普通に受け取っていただけた。
受け取る際に教員が「何コレ?シャネルの指輪?」という予想外のネタ振りをしてきたので、ノリと勢いで適当に「それと同等のものですよ!」と答えておいたのだが、気になることがひとつ。彼は欲しかったのだろうか、シャネルの指輪。
以上
前期レポート
その1「記号」について
「記号とはなにか?」
私の大学3年目の春はこのウンザリするフレーズで始まった。そしてこのレポートの書き出しもこのフレーズで始めてしまった。ただでさえウンザリするフレーズをこともあろうか使いまわすという、自らの芸のなさとアホさ加滅に「ウンザリ度倍増キャンペーン実施中」である。何故ウンザリするかは、おそらく私が最初に行った出来の悪い発表のイメージがあることと、考え出したらキリがなくなることが理由ではないかと思われる。
さて、この場合の記号というのは記号学で便われる場合の記号のことであって、人間が物事を認識するために使う「意味を担っているもの」のことである。そしてこの「意味を担っているもの」すなわち「記号」は関係のネットワークともいえる他の記号との相互関係の中でしか意味を持つことができない存在である。要するに、我々は何かを認識するとき、他に存在するものと比較することで意味付けし、言い換えれば記号化し、認識しているのである。
脱線して個人的な趣味に走らせてもらうと、絵画にも同じことがいえるのではないかと思う。ひとつの「絵」自体を「自分の机」なり「隣の家で飼われているアホ犬」なりと比較し、「絵という意味を持つもの」として認識できるといいたいのではない。ここでは絵画がただの画面に擦り付けた絵の具、もしくは鉛筆の芯の粉やインクの集合体としてではなく、絵画を構成するそれらがかもし出す色のコントラスト(対比)が、何らかの輪郭や形(もしくはイメージ)としてとらえられることによって成立しているという点に着目してほしいのである。
要するに、色のコントラストによって表現され、認識される絵画のシステムが、関係のネットワークによって意味付けされ、認識される記号のシステムと似通った部分があるのではないかといいたいのである。
話は戻って、記号というものは、もともと確固たるものとして存在しているわけではなく、常に生まれたり壊れたりしているものである。ソシュール以降の先鋭な記号学者たちは、記号のシステムがあらかじめ存在しているという自明性を疑って、記号と意味の生成・解体のプロセス(シニフィアンス)を解明しようとしているそうだ。
最初私は、シニフィアンスの解明というものの必要性がいまひとつ理解できなかった。気になったら徹底的に追求するまで気がすまない性格であるとか、そのことに面白さを感じるとか、研究者個人の性格や趣味の問題ではなく、シニフィアンスの解明が何か世のため人のため地球のためになることであったり、何らかの利益につながったりすることなのであろうかと思ったわけである。その疑問に関しては先に進むにつれ言語学の研究や、コミュニケーションについて考える際に必要になってくるということが何となくではあるがわかってきているので変に意識しないようにしている。
意識しないといってもそのことについてまったく考えようとしないわけではない。パターンが一通りに定まらず遠々と増えつづけていく生成・解体のプロセスは、解明したところでキリがなく、私もイタチごっこを続けるだけのシニフィアンスの解明への情熱とスタミナは持ち合わせていないので、シニフィアンスの解明だけを取り上げて考えるのはやめているという話である。やはりシニフィアンスは、何について考えるかによってその場その場で使い分けるというのが一番妥当であると思う。
その2「交通」について
ゼミでテキストとして取り上げられている『現代言語論』の流れからいうと結構な「飛ぴ具合」である。(発表の順番の関係であるから仕方ないのではあるが)
交通という言葉には人々や物資の「交換」、「交易」、「コミュニケーション」、「生産関係」といった様々な意味が込められているが、ここでは従来の言語理論が前提にしてきた固定されたシステム(共同体)に対する、またはシステムの外部で働く動的な力・関係のことを主に指している。
この「交通」という考え方における固定化されたシステムとは、まず最初にそれ自体が存在するのではなく、動的なものの交通路の交点がたまたま固定化されたシステム(共同体)であるかのように錯覚されているだけのものなのだそうだ。
なるほど、都市も人が集まり外部との交易が行われないことには成り立たないし、現在の形に進化した動物も環境の変化などの外部からの刺激(これらを共同体と交通の関係としてとらえていいのか少し怪しいのだが)を受け入れなかったとすれば存在しない。
ふと思ったのだが、音楽に関してはどうなのであろうか。
例えばオーケストラで音楽を演奏した場合、いくつもの楽器が出す音という交通の力によって楽曲というシステムが成り立つ構図がうかがえる。また、指揮者、奏者が各々交通の力となってオーケストラというシステムを作り上げているという見方もできる。さらに、そこに楽譜や楽器の演奏方法などのシステム(共同体)とそれを構成する何らかの交通の力が絡んでくる。
これまで特にオーケストラで演奏されるような大規模な音楽は、漠然と複雑だとは思っていたが、「交通」の視点を取り入れ、改めて考えると、また異なった複雑さが浮かぴ上がってくるように思える。
その3「二つの項目の全体的な感想」
前期に私が担当した項目「記号」と「交通」で述べられていたことには似通った部分がある。どちらも、物事の基礎になりそうな、というよりむしろなっていると信じ込んで疑いそうもないもの(意味、システム)が、実はそれと異なったもの同士の関係によって作り上げられているということである。
私も最初は意味やシステムが言語学その他諸々の最小単位だと信じていたところがあったので、この二つの項目で述べられていたことは私にとって新しい発見であり、ちよっとした感動を覚えた。その一方で「疑う」という行動でしか発展できなさそうな印象も受けていたのでウンザリした。(私は神の存在は信じないし、初対面であったり、良い印象を持っていない人の場合は人を疑ってかかることもあるが、疑うことは疲れを感じずにはいられない人問なのである程度は仕方がないのだ。)
以上