ぜみれぽ

 なぜ紙飛行機を飛ばすのか
なぜ何故なぜなぜなぜなぜナゼ何故なぜ?
「何故」と言う言葉から推し量れる事実。
 〇どのようにしてこの事象に至ったのか。
 〇どのような作用があるのか。
 〇疑問、問題提起
別れ話の中に
なぜ?どうして?私の何がいけないの?
 どう答える?
君の存在全て。
そういうところ。
僕がいけないんだ。
なぜなぜなぜナゼナゼナゼ?
 問題提起。仮説の設定。それらは数学的システムだ。
授業なんかに意味はない。意味なんてない。
 授業を講師の一つの人間労働とするならば、それを受ける者はそれに対する代価、価値を支払わねばならない。資本とはそういうことだ。
 労働を貨幣に置き換えることで、それは一つのシステムとなる。人間社会に置き換えられたデータの移動。複製。それによってあらたに生成されるもの。結果、データは更新され続け。置き換えられ続ける。果てしなく果てしなく。そして価値は変化する。しかし、システムは変わりはしない。問題は、データに対する価値の変化以上にシステムの存在の大きさ。その大きさ故にデータはしばしばその存在の意味を消失する。システムの価値の大きさはデータのそれを遥かに凌駕する。肥大化したシステム。それが社会だ。
 なぜ?
なぜだろうね。
 一ついえるのは「なぜ」と言う言葉自体がシステムの存在を示唆し、それが数学的に、体系的である。ということだけである。「ナゼ」を連呼していては授業にならない。学ぶ事と疑問に思うことはシステムの根幹から異なるのだ。
答えはどこかに存在するかもしれない。

 ゼミを行う。と言う事は、答えを見出す事ではない。知る事でもない。得られる情報にも限りがある。まとめるということだ。それは作業、一つの成果の実施。だからゼミ自体に何か大きなうねりや流れはない。システムに入るための精錬場。そこで何を成すかは明白である。
この世に天才はいるか?
ある人はそんなものいないと言う。確かに、同じ人間という生命体として、人体のシステムを逸脱した機能を持った人類はいない。もしいたとするなら、それは人間じゃない。NASAかWWFにでも駆け込んだ方が良い。天才と呼ばれる人々も我々と同じ構造をしていたのだ。
天才はいる。
 アインシュタインもモーツァルトもソクラテスも夏目漱石も皆天才だった。彼らが超越したのではない。彼らが導き出したものが超越していたのだ。
ベートーベン
 「運命」について
何故あれほどの衝撃と感動を与えるのか?
ダーダダンダーダダンダーダダン・・・・
ベートーベンほどの音楽家ならば色々考えたはずである。タタタタンでも良かったしタタータとしても良かった。ダンダダンでも。しかし、ダーダダンである。単純だ。シンプルなテンポ。そしてそれを繰り返す。何度も何度も何度も何度も。
何故?
 それが最も人の心に残るからだ。最も人がデータとして認識しやすいからだ。ベートーベンは音の世界を理解していた。どのように演奏するのかではない。どうあるべきかが重要なのだ。方法ではなく理解の問題なのだ。
何かを教えられる事は即ち理解を消失させる。

畢竟、ゼミでも同じ事が言える。理解の問題だ。自分の理解を放出するべきなのだ。下手に綺麗にすませようとすればロク事にならない。
 僕みたいに。
戻る


前期レポート

 砕く 粉骨砕身努力する。とは、違うけれども一つ砕く、目的のある授業であったかと思う。それは、固定観念であったり、先入観であったり、思い上がりであったり、足元であったり、イメージであり幻想である。そう思っていること自体また幻想であるかもしれないが、とかく、授業に参加する上で何かを砕かれた事は事実であろう。しかし、砕かれると言う事と、そこから抜け出すと言う事は、全く別のことだといえる。今まで人間として生きてきて、ある日自分は人間じゃないと否応無認めなければならない事態に陥った場合、それを一つの帰結として捉える人は少ないのではなかろうか?「じゃあ何なんだ?俺は?」と思うだろう。それはその人が生きているという時点で逃れようのない疑問であり、抱えあげた問題といえよう。つまり、砕かれる、あるいは砕ける物と言うのは、決して形而上的な問題ではなく、実際に分断され、破壊可能な、物理的問題と言える。これには時間的な流動する性質も関わりあってくるが、これは、この砕かれた問題が、その砕かれた時点から、更にどこかの方向にベクトルが向く事を意味している。出発点でしかないわけだ。

 出航 さて、砕かれた観念の世界、と言っても、この授業の場合、言語についての事になるわけだけれども、私が触れたのはロラン・バルトとジュリア・クリステヴァ。授業については皆様の熱い声援と清き一票により、よい授業が出来たのではないかと思う。馴れ合いのような意見が少なく、練りこまれている、練りこまれていないに関わらず、個人の考えを出すところが特に良かった。これは一重に一人一人の考える意思がそうさせたのだ。考えるが、それは、取り上げた言語学者達にも同様の事が言える。前項で上げた通り、少なくとも自分は、この砕かれた状態から何かしらの一歩を踏み出さねばならず、授業の進行上、題材にされた問題、著者、とも考える上での例、先導者のようなものであったと思う。ここで考えなければならないのは、考える事についての一つの形を提示されたのか、問題としての言語学との交渉であったのか。である。自分は前者に捉えている。正確には両方なのだけれど、それを通じて考える事について至ったと思う。論理的かつ体系的に深く物事を捉えるための考え方の一つの見本であろう。

 アホ犬 なんて事を考えるのもせんない話で、結局自分の好きな題材で好きなようにやってみろ。と言う桑原講師の言葉から、そう推測しているだけなわけだが、言語学自身致命的な不完全さを持つ分野で、出てくる理論や人々も不完全なものが多かった。知識としての授業で無かった事だけは事実だろう。

戻る