後期レポート

散文研究演習TA後期発表のまとめ

 後期で私が発表したのは、「平安時代の女性について」と「15世紀末スペイン王朝について」である。何の脈絡も繋がりもないようだが(しかも文学と何も関係がないが)、双方共に私の興味とロマンを刺激して止まないテーマなのである。そこで、この二つのテーマを振り返りつつ、何か共通項がないかと探ってみようと思う。

 まず、平安時代(11世紀ごろ)の女性。
 この頃の日本、女性はまだ深い男女差別の中にいた。今日「まだ残っている」と、熱心な女性論者に言われる今日の女性差別とは比べ物にならないほどの差別の中にいた。  まずどの点に差別があったか?と言うと、生活、収入の面ではもちろんだが、男女の性愛についても、激しい差があった。
 収入については、女性にも働き口はあった。宮中や貴族の邸で、女童や女房として働くことができた。女房というのは、部屋をもらっている女性を指して言う言葉で、実際には、女房よりも下位に位置する女性たちもたくさん働いていた。
 その女房たちの序列を決定するのも、ほとんどは身分である。かなり身分の高い女性も、父親がいなくなるなどして経済力を失えば、自分が食べていくために女房にならざるを得なくなったりしたようである。こういった働く女性は(実際には、働かなくてもいい女性のほうが圧倒的に少なかった)、その序列に応じて、男性と同じように布などの形で給料をもらっており、それによって生活していた。ただ、場合によっては支払いを軽んじられたり、横領されたりということもあったようである。差別がないようでいて、やはりそこに女性を軽んじる傾向はあった。
 しかし女性にも出世という概念はあり、中級貴族女性の最高の出世コースといえば、天皇の乳母になることであった。親王の乳母となり、さらにその親王が天皇となれば、三位の位を授かることが多かったようである。位に応じて給料も多く、天皇に言って自分の夫や父の出世を融通してもらうこともできて、さらには天皇の遺産をもらうことさえあったようだ。女性としては最高の出世といえる。また、下位の女性でも、長年勤め上げれば位をもらうこともあったようだ。
 遺産相続に関しては、この頃は差別はなかったように思われる。後の時代のように親の遺産は息子がもらうものという意識はなく、むしろ経済力のない娘のために親が邸を遺すことのほうが多かったようだ。ただ、娘が邸を相続しても、頼る人がいなければ、財産を横領されたりして、邸は荒れ果ててしまったようである。
 そして、恋愛・結婚について言えば、これは収入の面よりもはるかに差別的だったと言える。まず、この頃は一夫多妻制だった。単純に一夫多妻とも言えないのだが、とにかく男性は、多くの妻を持つことを許されていた。高位の位を持つ男性ともなると、正式な妻が2、3人いるほか、正式な妻ではない妾、さらに自らの家の使用人である女性を愛人にする(召人などと呼ばれる)ということが普通だった。反面女性はといえば、夫以外の男性と関係をもつことは許されておらず、女性は、表立って夫の浮気を責めることもできず、夫の通いを待つしかなかったのである。
 この頃の結婚とは基本的には通い婚で、男性は、結婚の後も同居することはなく、気の向いた時に妻の家に通えばよかった。場合によっては、自らの家に妻を迎えて同居することもあり、そうすると同居の妻は「北の方」と呼ばれ、夫の遺産を運用することができたりと、ある程度の地位は約束された。しかし、この「北の方」の地位も危ういもので、夫が別の家に移ったり、別のもっと地位の高い女性を迎えたりすると、「北の方」の地位はその女性に移り、元々の「北の方」は「前北の方」へ降格する。皇家の血筋の姫が貴族の男に降嫁した時などは、皇家であるがゆえに、必ず「北の方」となってしまうため、降嫁には現在の「北の方」が大反対したようだ。
 更に院政期になると、夫は他の女だけではなく、男にまで血迷うようになっていく。院政期には男色が流行し、しかもそれが当たり前のこととして受け止められるようになった。頼長の『台記』にもあるのだが、この頃の男色は、政治まで動かすことがよくあったのである。男色が流行った原因の一因として、女性の地位のさらなる低下が考えられている。女性は、院政期には、汚らわしい存在とされ、女性との関係を持つこと自体が汚らわしいと考えるようになったのである。そこで、対等な恋愛関係を求めて男色に走る男が多かった、と一説にはある。
 女性には厳しい時代だったと言えるだろう。

 さて、15世紀スペインに話を移すと。私が中心的に見ていったのは、カスティーリャ王女イサベルと、アラゴン連合王国王太子フェルナンドの結婚である。この結婚は、女性であるイサベルが圧倒的に優位な条件で成された。その背景を見ていく。
 まず、カスティーリャとアラゴンは、その人口に大きな差があった。アラゴンには、カスティーリャ人口の約三分の一ほどしかなかったのである。
 アラゴン連合王国は、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの三つの地域で構成された連合王国で、その中でも経済、政治において重要だったのはカタルーニャだった。カタルーニャは13世紀末から14世紀にかけて、海外に進出して領土を拡大し、貿易によって繁栄した商業国家であった。商業で力を得た都市支配階級を背景に、カタルーニャでは都市市民の権利を守る議会政治が進行し、王権は厳しく制限されることになった。しかしその成熟した政治体系の裏側で、カタルーニャは衰退の一途を辿り始める。ペスト、軍事支出に伴う財政悪化、オスマン帝国の進出、反ユダヤ運動とそれに伴う金融危機などを背景に、カタルーニャは衰退と混乱の時期を迎える。
 15世紀中ごろ、アラゴン国王フアン二世が即位するが、都市支配階級のビガ党と、手工業者や小規模な輸出商からなるブスカ党(フアン二世はこちらを支持した)との争いの中、カタルーニャからの脱出を余儀なくされる。こうして内乱がおき、内乱と平行して農民が蜂起し、さらにフランスからの外交圧力もあり、アラゴン連合王国は混乱の中にあった。そこで、フアン二世は国内の平定のため、カスティーリャとの同盟を求めたのである。
 一方カスティーリャは、レコンキスタを背景にした軍事国家だった。この国の富は、レコンキスタによる略奪と、奪った土地からの収入で得られるものだった。13世紀には、カスティーリャは、レコンキスタによって得た広大な土地を大きなブロックに分け、それを騎士修道会、教会、貴族に分配した。これによりカスティーリャの貴族階級は富裕となり、王権を凌駕するほどの権力を持つ存在となったのである。その反面王権は不安定で、政府は崩壊し、公共の秩序は乱されていた。15世紀、カスティーリャでは、エンリケ四世が王位にたっていた。しかし王権を弱体化させようとする貴族側が、幼い王子であるアルフォンソを即位させようとし、内乱が勃発した。この内乱は貴族側が敗北し、アルフォンソも急死したが、国内を安定させることを優先したエンリケ四世は、娘のフアナではなく、貴族側の押した異母妹イサベルを次期王位継承者として指名した。イサベルはそういった経緯から、貴族側とのつながりもあり、エンリケ四世とは緊張した関係にあった。
 そんな中イサベルと、フアン二世の息子である王太子フェルナンドが結婚したのは1469年、イサベルが18歳、フェルナンドが17歳の時だった。イサベルは自らの不安定な地位を確固たるものにするため、よりよい夫を選ぶ必要があった。夫候補としては、ポルトガル国王やフランス国王がいたし、そちらのほうが国力としては釣り合いがとれていたのだが、イサベルは自分の意思でフェルナンドを選んだようだ。アラゴン連合王国は、力としては弱いものだったが、その分、結婚をイサベルに優位な条件(フェルナンドはカスティーリャに住み、王女の大儀のために戦わねばならず、また国の統治者としては二番目の地位であると明確にされた)で行えるというメリットがあり、また、フェルナンドにも個人的魅力があったようである。
 この結婚は多くの勢力に反対され、カスティーリャの反アラゴンの貴族側も、今度はエンリケ四世のフアナを担ぎ上げてイサベルに敵対した。フランス王ルイ十一世、ポルトガル王アルフォンソ五世も敵にまわる。エンリケ四世が1474年に死去すると、イサベルはすぐにカスティーリャ女王を宣言したが、1475年、内乱が勃発する。最終的には1479年、イサベルは全カスティーリャを支配下におさめ、内乱に勝利するが、その勝利にはフェルナンドの存在が大きく関わっていた。同じ年にアラゴンのフアン二世が死去し、フェルナンドが王位を継ぐ。こうして、二つの王国は正式に統合されることとなったのである。

 と、二つのテーマを大まかに振り返ってみたが、やはり共通するところはなかったようである。唯一言えるのは、どんな差別の中にあっても、いつの時代でも、それなりに女性は逞しくしたたかに生きていた。ということである。

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前期レポート

 ソシュールは、記号論の創始者である。ゆえに、記号学言語学を学ぶには、まず彼の理論を学ばなければならないだろう。
 ソシュールの理論で有名なのは、ランガージュ・ラング・パロール、共時態と通時態、実体論から関係論への転換、システム、差異、価値、連辞関係と連合関係、シニフィアン・シニフィエといったものが挙げられる。
 まずランガージュ・ラング・パロールについて言うと、ランガージュは人間の持つ普遍的な言語能力、抽象能力、カテゴリー化の能力およびその諸活動である。つまりは、人間の言語を言語たらしめている能力といえる。そこにある音の連続を、言語として認識する能力とも言える。ラングというのは、ランガージュが具体化したもので、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体である。そしてそのラングをさらに具体化したものがパロールであり、これは特定の話し手が具体的音声の連続を発話する行為を指す。
 そして、実体論から関係論への転換。これは、二回目の発表で担当したヴィトゲンシュタインとも、ある程度目的が同じであるように思う。まず実体があり、それに見合う言葉があるのではないという考えについては、二人は共通しているようだ。
 ただそこから発展させたものには、大きな違いがある。ソシュールは「個人」での言語を考え、ヴィトゲンシュタインは「社会」での言語を考えた。
 ソシュールの場合は、言語についての思考は個人に限定されているように思える。ソシュール理論の中核をなす共時態、通時態の区別にしても、完全に個人の領域にある。  共時態とは、「視点=語る主体の意識=聴く主体=意味を読み取る主体」が認識した表意的差異のシステムであり、語る主体の意識に問うことによって取り出される言語(ラング)の静止状態である。言語は常に変化するものではあるので静止状態というものは現実には起こり得ないが、ここでいう言語の静止状態とは、言語を科学として扱うための、認識対象としての静止状態であり、それは時間的静止ではなく、個人の表面上の意識=前意識が認識している『個人の中での静止』なのである。個人が前意識で理解している、言語の差異と対立のシステム、それが共時態である。
 そして通時態とは、共時態の『静』に対し、『動』の認識対象である。通時態は共時的な記号システムに還元されない出来事たちが、主体の意識に到達しないところで刻々と生起している、生成と解体の場であり、差異化の場であり、不等質的な差異の戯れである。
 つまり、個人の前意識の中で固定した表意的差異のシステムを持つ共時態に対し、通時態は個人の意識を逃れ、無意識のうちに時間の中で生起する出来事の場である。ここで言う時間とは、物理的時間ではなく、主体の意識を逃れた無意識の場での言語システムの変化・運動の原動力、差異化の力である。この差異化の力、運動しつつある力により、通時態という個人の無意識の『場』では、システムは生成・解体され、差異は不等質なものとして常に変化し、出現し、消滅する。この通時態での運動は、無意識のものであるがゆえに、表意的意識のシステムである共時態には還元されないが、ときには、共時態のシステムに流入して、システム全体を変容させることもある。そういった共時態と共時態のはざまで起こる出来事そのもの、またそれを引き起こす力の場が、通時態なのである。
 ソシュールはこのような共時態、通時態の区別を定義した。この理論は、確かに言語の真実の一面をついたものではあるが、言語を個人の領域で以って考えたものだと言える。それに対しヴィトゲンシュタインは、言語を個人で考えることを放棄し、社会においての言語を探究した学者だと言える。
 彼の理論で最も有名なものは「言語ゲーム」という言葉だろう。この「言語ゲーム」(言語と言語の織り込まれた諸活動との総体)という言葉には、ヴィトゲンシュタインの、言語は単独で考えるべきものではなく、言語の使用、言語の役割、言語を使った活動について考えるべきだという考えが表れている。言語を用いるのは何かをするためであり、その何かは情報を伝達することを単にその一部として含むに過ぎない。よって、大切なのは言語の意味ではなく、言語の役割なのである。
 言語使用の役割について考えるには、必然的に社会について考えなければならなくなる。個人的な言語の規則で、言語を使用することはできないのである。言語を使用し、それが言語と認められる限り、そこには必ず社会で認められた規則、ヴィトゲンシュタインの言う慣習・慣用がある。
 ただし、個人的に規則に従うことはできず、人が言語を使う時には必ず規則に従ってはいるが、その規則、慣習は決して絶対的なものではない。ヴィトゲンシュタインの強調しようとしたものは、むしろその規則の無根拠性なのである。言語の意味が既にそこにあるものではないという考えにたつと、コミュニケーションの成立を保証するものは何もない。しかし、実際に言語ゲームは成立している。それを成立させているものを、彼は慣習と呼ぶのである。
 このように社会、慣習に目を向け、私的言語の可能性を否定したヴィトゲンシュタインだが、それはソシュールを否定するものではない。なぜならば、ソシュールもまた、言語の無根拠性に目を向け通時態を生み出したのであり、ヴィトゲンシュタインの理論は、言語の意味をある種の超越的なものとして見ることを防ぐものであって、個人の内面、無意識下で起こる変化する言語の差異を否定するものではなかったからである。

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