後期レポート

石に泳ぐ魚・まとめ

 柳美里の処女小説『石に泳ぐ魚』が一九九四年九月「新潮」に発表されてから約八年半の月日が流れた。長い年月の間に三回もの審議が行われ、それらを経て、柳美里は当初の作品を書き直したという「改訂版」を最高裁の判決が出た直後に出版するに至った。なぜ、彼女がそこまで『石に泳ぐ魚』に執着するのか、これほどまでに早い段取りで改訂版の出版にこぎつけたのはなぜか、私には今一つ理解できない。私が考えたところで答えが出るわけでもないだろう。今回は、「初出版」と「改訂版」を比較し、裁判の判決を受けたことによって作品がどう変わったのかを検証したい。
 「改訂版」で変更されている箇所はかなりあるが、まず、里花の父についての記述に関する変更についてみてみようと思う。「初出版」では、里花の父は大学で交際政治学を教えていた。ゆきのの父も国際政治学を教えていて、そのつながりで里花とゆきのが知り合ったことになっている。また、里花の父が北朝鮮で講演をした後、韓国に入国したところ、スパイ容疑で逮捕され、里花とその母は韓国に帰らざるを得なくなった、ということになっている。「改訂版」では、里花の父が新聞社の特派員として来日、ゆきのの父をインタビューしたことがきっかけで家族ぐるみの付き合いが始まり、里花が八歳のときに父が「どういうルートだかわからないんだけど北朝鮮に行」き、一年も経たないうちに韓国に呼び戻されて逮捕されたことになっている。「改定版」では父親の職業設定が変えられており、「初出版」のときよりも全体的にぼやけた表現が用いられている。特に「スパイ容疑」という逮捕理由が削られ、なぜ逮捕されたのか、という理由はここでは書かれていない。この部分の変更は、原告の父が講演先の韓国でスパイ容疑で逮捕されたことについての記述がプライバシーの侵害にあたるとした裁判所の判決を受け、書き直されたものと思われる。
 次に、大きく変更されているのが戯曲になっている部分である。この部分は、「初出版」では里花の「私はどんな顔をしてる?」という問いかけに対して秀香が彼女の顔の印象をそのまま告げる場面である。しかし、「改訂版」の秀香は何も言えず、里花はそのまま去ってしまう。裁判で一番ネックとなって争われたであろう部分がこの戯曲の場面で、露骨に原告の顔を表現していた場面がごっぞり抜き取られる形になった。
 次に変更されているのが、里花が志望する芸術大学及び、その志望のきっかけである。
 志望する大学院の大学の名前は東京藝術大学から武蔵野美術大学へと変更されている。また、その芸大を選んだ理由に関して、「初出版」は里花が感銘を受けた画家とヴァイオリニストの出身大学が偶然同じであったことに運命を感じたという。一方、「改訂版」は韓国の画廊で出会って意気投合した日本人旅行者の出身大学が武蔵野美術大学で、いろんな話を聞いた、ということになっている。その後、「初出版」ではヴァイオリニストに手紙でやり取りして出会うことになったことが、「改訂版」では受験で来日したその日に日本人旅行者と再会したことが書かれている。「初出版」ではかなり詳細に書かれている印象を受けた部分だが、「改訂版」ではさらっと流してしまえるような分量にまで削減されていて、「初出版」ほど里花のその芸術大学にこだわる理由が強く感じられないように思う。
 また、里花が勉強しているのが陶芸から彫刻に変更されていて、それに伴って、里花と同じように受験する人物に関する設定もいくつかの変更が見受けられる。まず、受験メンバーで男性二人はそのままだが、陶芸をやっている主婦が彫刻家の二世の若い女性に、武蔵野美術大学の女学生が京都市芸大の女学生に変更されている。また、彫刻になったことでそれぞれが提出する作品が変わり、秀香が沖縄の青年の作品を熱心に見入る場面や、韓国の男性が轆轤ですばやく作品を作り上げてしまったという場面が削除されている。しかし、その他の会話などは「初出版」とほとんど変わらず、二世の若い女性という設定になっているのに彼女の発言はそのままで、妙に老けた口調の女性になってしまっている。
 もう一つ、大きな変更があった場面をあげるとすれば、秀香と前島の打ち合わせの席に里花がやってきて「私も芝居に出演したい」という場面だろう。「初出版」では、映画のエレファントマンを具体例にして、里花は役者になれない、と前島が言い放ち、それを聞いた里花が先に喫茶店を出た後紙袋を頭にかぶって秀香の元へ向かってくる、という場面である。「改訂版」では同じように里花が「芝居に出演したい」というものの、エレファントマンの話が一切削除され、里花が先に喫茶店を出ることもなければ紙袋を被ることもない。
 ざっと読んだだけでもそれ相応に、特に里花に関係している記述は変更されている。(秀香が主の場面は目立つ変更はなかった)裁判では名誉毀損やプライバシーの侵害について争われたが、「改訂版」によってそれは完全に克服できたと言えるのかどうか。  原告の顔を直接に描写したり蔑むような表現こそなくなったものの、周りの視線を浴びる記述はほとんどそのまま残っている。里花の顔の腫瘍がこの小説のネックになっていることに変わりはなく、逆に直接的な表現がなくなった分、里花の顔の腫瘍のことがわかりにくくなっていて、なぜそれほどまでに周りから異様な視線を浴びるのか、今ひとつわかりづらいように思う。それでもこの「改訂版」が小説として成り立っているのは「新潮」で一度発表しているからと同時に、裁判で原告の顔の腫瘍の件で争われた、という事実が背景にあるからではないだろうか。裁判を通して「改訂版」を出すことによって、書かれていない部分に原告の顔の腫瘍のことが暗に含まれるようになってしまったのである。原告女性はそのことも含めて、裁判所に「改訂版」の出版の差し止めを要求したと思われるが、その訴えが認められることはなかった。法の中ではそこに表現されていることが全てであり、その中に含まれている意味などは審議対象にはなり得ないのである。裁判を通して付加された意味などはなおさらである。
 柳美里は裁判結果を受けて、作品を手直しして『石に泳ぐ魚』を出版したのだが、この「改訂版」は、特に「初出版」を読んだあとだと物足りなさを感じる。里花の父親の履歴や大学を受けに来た受験生の設定を変更しているが、変更内容を変更前と比べると、変更箇所の記述が全体的に曖昧かつ軽い感じを受けてしまう。また、大幅に削られた戯曲の部分も、あそこが一応この小説の見せ場であったと思われるが、それがなくなってしまったことで、もう一つ締まりがない印象を受ける。
 「初出版の方がよかった」というのは第一印象贔屓のようなものがあるせいかもしれない。しかし、それを差し引いて考えても、(この小説に文学的価値があったとして)作品だけ取り上げて考察しても、やはり、今ひとつだと思う(裁判を通して、商品価値は上がったと思われるが)。柳美里が最高裁まで持ち込んで争った「幻の処女小説」だが、最初に書いた作品のインパクトがなくなった「改訂版」など出版せずに封印してしまえばよかったのではないか、などと私は思ってしまった。

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 私は大学に入るまで、日常で使用している言葉を"言語"という1つの物として見たことがなかった。だから、もちろん、"言語"とは一体何なのか、などということを考えたこともなかった。大学の講義で初めてそういったことを考える機会を得たが、今回の演習はそれらのことについて、より一層深く自分の中で考えることのできた、よい時間だったと思う。
 私は、演習で『現代言語論』の〈意味〉の章を担当したが、著者の立川氏曰く「われわれ人間は、つねに、あらゆるもの・ことにたいして意味をさがし求めて」いて、「生きるということ、あるいは人間であるということは、意味を追い求めることと同義だ」という。
 フッサール、ソシュールをはじめとしていろいろな人物が「意味とは何か」という命題に挑んだが、「「意味の意味」は不明」のままで今日まで来ている。本の中では、立川氏がブルームフィールドの著書『言語』から、"意味"を「主体がある現象を、なんであれそれよりも「重要」だと彼が見なす、ほかの物質的ないし心的な物事に結びつける際の関係のこと」ではないか、としている。しかし、これがはたして「意味の意味」の完全な答えとなりうるといえるのだろうか。
 本の「共時態と通時態」の章にも記されているように「言語は刻々と変化しており、一瞬たりとも静止した相を示すことがない」ものである。同様にそれぞれの記号のもつ"意味"も絶えず揺れ動いていて定まることのないものである。だからこそ、ソシュールは言語学を「科学」として取り扱うに際して、〈認識対象〉を切り出すために、語る主体の意識という視点から共時態と通時態という概念を置いたのだ。こうすることで、常に揺れ動いている言語ないしその意味を一時的にとらえて、その上で言語学を「科学」として研究を進めようとしたのだ。(本では、ソシュールは、語る主体の意識、正確には聴く主体の前意識にとっては、「静止した言語状態しか存在していない。言語はいま・ここでも少しずつ変化をつづけているし、ある個人の一生をつうじてもある程度は推移しているわけだが、個人はその変化をまったく意識せずに、自分は一生涯同じ言語を聴き、話していると信じている。このように、〈聴く主体の前意識〉というフィルターをつうじて得られた認識対象が〈共時態〉であり、それを逃れ去るものが〈通時態〉だと定義したという。」
 言語も、それが指す意味も常に揺れ動いている以上、「意味の意味」も揺れ動いているものであると考えられるのではないか。と、いうことは、先ほどブルームフィールドの『言語』から導き出された〈意味〉=「見かけは重要でないものの、それヨリ重要なものとの関係」という定義も真の答えにはならないだろう。(無論、「意味の意味」を考える上で、今までに出た学説や定義などよりも重要な定義なのだろうけれども。)なぜなら、「〈意味〉というのは、音素や文法形式とはちがって、人間のあらゆる経験や世界のありとあらゆる事象に関係するために、たったひとつの単語の意味でさえ「決定不可能」であり、容易に形式化しえない対象だからである。いいかえれば、言語の〈意味〉は、音素や形態素のような閉じたシステムを構成していない。〈意味〉のシステムは無限に開かれており、その全体を知ることは不可能である」からだ。
 そもそも、言語というもの自体が刻々と変化し続けているものであり、それらを一つの物事に定義するという行為自体が無理なことではないかと思われる。それはちょうど水を素手ですくいとる行為に似ている。手で水をすくいあげたその時は、手の中に水があるが、時間が経つにつれて手の隙間から水がもれて、気がつくと手の中には何も残っていないという状態になる。言語学もそれと同じで、その時に何か一つの定義を得たと思っても、気がつけばその定義では対応しきれないところへと言語は変化していて、結局そこには何も残っていない。その手の中に再び水を入れるためには新たに手で水をすくい直さなくてはならないように、言語学における定義もまた、そのときそのときに考察し直さなくてはならない。それは、言語が揺れ動くものである限り、かわらないことなのである。
 では、その変化し続ける言語に対して定義を求めることは必要なことなのだろうか。いつか対応しなくなるであろう定義を見出すということは本当は不必要なことではないか。
 こうして考えてみると、言語の定義を定めるということは一見無駄なことのように思えるが、そうではないだろう。
 人間は日常生活において、言語の変化というものを感じることはない。言語に定義を与えようとする行為は、その変化を自分たちの意識の中へもってくる上で必要な手続きなのだと思う。これらの手続きは「われわれにとって、一方では恐怖・不安・嫌悪感をひきおこすとともに、他方ではまた強烈な歓びと快楽をもたらす出来事」である。同時に、言語の変化を感じ、考えることで、自分たち自身も「しなやかに変わって」いけるのではないだろうか。

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