99−1−81−314
鈴木 玲子
この授業を、というよりこの『探究I』を通じて触れた考察というのは私達の普段の生活からは掛け離れた哲学の論理に見えて実は現状と、とても肉薄したものだった。肉薄どころか、「演習」をすることそのものが『探究I』のいう「コミュニケーション」と呼ばれる行為だったと、私は実感している。
ただ、自分のプレゼンが終わって「あの時の質問にはああ答えればよかった」という風な悔いばかりが残る。別に自分が完璧主義なつもりは全く無いが、それでもせっかくの発表の場で、他人を納得させられなかった事はかなり応える。これで他のゼミでやっていけるだろうか、いや将来社会でやっていけるだろうか、自分はこんなだから友達が少ないのだろうか、自分は口ベタで他人と接するのが苦手な人だと思われているだろうか、私は不健康で陰気なダメ人間だろうかウジ虫野郎だろうか。などという、自分自身の自信喪失が今後のプレゼンテーションの改善につながるのだろうから、後悔してもネガティブな方向へ引き下げていってはならない。この「演習」形式の授業の意図はプレゼンテーションの難しさと、そこをクリアして成功させるための訓練を化するところにあるのだ。成功するプレゼントはどういったものか、私にはよく分からないが、少なくとも誰も自分の言っていることを理解できないという悲惨な状況ではない。オブザーバーが退屈に感じてしまうものでもない。結果、個々人の刺激となり得たのなら、まあ成功したといってよいのかもしれない。
ところで『探究I』の内容へ話を戻すと、私がこの中で最初に自分の経験とクロスオーヴァーしたのは、「数字」の解釈を巡る辺りだった。そのとき『π』という映画を思い浮かべた。このフィルムの中では、万物は全て数字で証明できる、と強く信じている数学者が円周率の謎をとけば森羅万象が全て予知できる事を見いだし、株価の変動から、神からのメッセージで、解読できれば神に近づけると言われている経典を解読できそうになるが、円周率の謎に執着し過ぎ、数字に取り付かれて自滅してしまう(かのように見えた。憑かれたように突然耳の後ろにドリルで穴を開けだし、その結果筋対する反応が前より鈍くなった数学者が映し出される)姿が収められている。このフィルムを見た時、それはそれで感激したので「数字」と見ると何しろ意識的にこれを思い出すが、それでも「たとえ数字だろうが法則など何処にもないのだ」という台詞や、碁を打つが上手く打てない数学者、碁盤に螺旋状に並べられた碁石(それを目にしたあとドリルで頭に穴を開ける数学者)などは、『探究I』と重なってくる。私はこの映画のラストも未だはっきり分からないが、確信しきれない所がまた『探究』と同じでいまでも頭に残ったままだ。
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