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小川 恵

卒業論文テーマ
ディズニーランドとそのスピリット

内容検討中

「探究I」について

 この「探究I」を読むにあたってはとても苦労した。なぜなら私(私だけでなくみんなそうだったのではないかと思うが)が生活しているこの社会において、「他者」と話をする、言い換えれば「他者」と言語ゲームができるのは何の障害もないものだと信じ込んでいた。その社会性を根本からくつがえせというのだ。
 私は第三章の「命がけの飛躍」を中心的に考察したが、ここで初めてその社会性というものを疑うことができた。意味するということが成立しない無根拠的な危うさ。それは、今までの自分(内在する過程)でさえも「他者」であるということである。今までの自分を疑うとは一体どういうことかと思ったが、例えば「自分はなぜこの言葉の意味をこういうものだと知っているのか?」と考えるとする。あくまで私は「みんながそういう意味のものとして使っているから」という答えをだす。そこまで考えるのはごく自然なのだが、「探究I」のことを頭に入れて考えると、「では自分はなぜみんながそういう意味で使っていると理解できたか?」となり、そしてその答えは謎である。単純なようだが、まさにそこが人間(言い換えれば他者である)の理解の神髄であると言える。
私はずっと「命がけの飛躍」という言葉にひっかかっていた。なぜ危ういと思うのか。なぜ命がけなのか。飛躍的な跳躍は本当に神秘的で謎なものであるけれど、私にはその表現がいまいちピンとこなかった。しかしよく考えてみるとその神秘がもし消えてしまったら? 根本的な問題に戻るが、「教える―学ぶ」ことが成立しない社会になってしまうとする。ということは今まで私達が暮らしてきたこの経済、哲学、社会性のすべてが失われることになる。こう考えて初めて私はこの表現の意味が理解できた。すべての社会性、実践性をくつがえす土台があり、それは言語という、ごく基本的な人間のやりとりの中に組み込まれているのである。私達が意識していないだけで、いついかなるときも「他者」とむかいあっている。それはまさに理論の問題ではなく、「話す=聴く」と言うことを成り立たせる現象学に対しての根本的な態度の変更である。この本自体が戦っているのは、他のどの部分でもないそこであると思う。

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