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99−1−81−296
西山 知宏

 他者に向かいあうということは自己の無意識を意識化し続けることではないか。常識あるいは規則、一般性があると信じることは、「信じること」において無意識的であり盲目的である。そして共同性の外にある者、共有の自明規則(それが言語であるか物事の考え方であるかなど違いはあれど)がない者とコミュニケーションを試みるさいに自分の規則とするものを、事前にそれが共有されていないのだから「教える」ことになる。規則を解さない者に向かいあうとき規則を信じることの無意識、盲目性を見つめること、疑うことになるだろう。
 発表では扱う本のためもあり難かしかった、もちろん自分の発表を行うさいもであるが、他の人の発表を理解するのがなかなかできなかった。
 私は自分の担当箇所、第六章(1,2)を発表するにあたり1を省いた。

 ヘーゲルによれば、キリストは、神が人間としてあらわれたものだが、そのことは人間が本来神的であることを意味する。ここから、ヘーゲル左派、とくにフォイエルバッハの宗教批判(自己疎外論)が生じている。すなわち、神とは、類的本質の自己疎外状態であり、人間はそれを自分にとりかえすべきだ、というような批判である。ヘーゲルの考えは、各商品に本来価値(対象化された労働)がふくまれており、貨幣はたんにその疎外(表現)にすぎない、という古典経済学と同型の考えである。初期のマルクス(『経哲草稿』)は、たしかに古典経済学を批判したが、それはヘーゲル左派によるヘーゲル批判と同型である。つまり、貨幣は人間的な労働の自己疎外状態であるから、その疎外から自己回復すればよいというようなものだ。(一〇八ページ、六章1)

 以上のような箇所では宗教学と経済学が同一の展望において述べられている。それらが同じ思考方法を辿っているのは理解できるが、説明するさいに多くの見知らぬ語がでてくるよりは「2」だけで説明したほうが理解しやすく、そのうえで時間があれば「1」にかえったほうが良いと判断した。「探求I」の読み難さは以上のような点にもあると感じた。
 ただ、これまではっきりと見えてこなかったコミュニケーションについて考える契機になったし、この本のために以後も考えつづけてしまうだろう。「探求I」は、これからコミュニケーションをとるとき、考えるさいに必ず頭の片隅に居場所を占めることだろう。
 それから、発表以前にちゃんと本は読んでこなければと反省した。他の人の発表を理解しがたいのはそのためもあるだろう。

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